ぶらっと

December 05, 2009

ぶらっと 小石川後楽園

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先週、紅葉を見に小石川後楽園へ足を延ばしたが、残念なことに少し早かったようである。
人も多く期待して入園したのだが、どうも暖冬のせいで1〜2週間紅葉が遅れているようだ。
何十年振りかで園内を散策した。入り口からすぐのところに寒桜がひっそりと咲いている。
賑やかなお花見の桜にはない恥じらいのような小さな桜に見とれてしまった。
桜はいつ見ても飽きない。何故だろうか? ふと母校芝学園の校歌の一節が浮かんだ。「桜の花をば染めたり赤く、その色すなわち我等がこころ」 そうか私たちの心の中に桜の色が沁み込んでいるからだと妙に納得してしまった。

周りは僅かに葉が色づいている程度であったが、カメラを向けている人が多いところへ行ってみると、中央の池に浮かぶ蓬萊島に見事に葉を染めている木が1本目に飛び込んできた。思わず足を止めて見入ってしまった。

小石川後楽園は、江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、その中屋敷として作ったもので二代藩主光圀の代に完成した庭園だという。
光圀は造園に当たり明の遺臣朱舜水の意見を用い円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れて、園名も「岳陽楼記(がくようろうき)」(范仲淹)の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名付けられた。
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都会の中で多事を避けゆっくりと過すには、ここ小石川後楽園はうってつけである。
紅葉も今週ごろには見ごろかもしれない。東京は港町であり、緑の街である。ぶらっとするだけで発見がたくさんある。
鴨が2羽池に落ちた色づいた葉の中を長閑に泳いでいる光景は東京にいることを忘れさせてくれる。

「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」
それにしても、政治家、特に首相はこの言葉を知っているのだろうか? 毎月1500万円を実母から数年にわたり貰い虚偽の届出をして、そのことが表に出ると初めて知った。寝耳に水だ。秘書からも母からも聞いたことが無い。1500円ではないのですよ。動いた金は数億円ですよ。民に先立って楽しむのは政治家のすることではない。上に立つものは楽しみを後にする。小石川後楽園へ来て改めて自分にも言い聞かせた。





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October 28, 2006

たまには「浜離宮」

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10月は休日が忙しく9日(月)だけしか休めなかった。
その9日に10数年ぶりに「浜離宮」(正式には「浜離宮恩師庭園」)へ散歩に出かけた。JR浜松町駅から歩いて約15分。天気がいいのでゆっくり歩いた。目の前は汐溜シオサイトで巨大なビル群が聳えているが、「浜離宮」の中に入ると別世界である。ここが東京の真中とはとても思えない。
子どもの頃によく「芝離宮」、「浜離宮」は遊びに行った。小さい釣竿と虫取り網そしてバケツを持って。もちろん今では釣りは禁止である。

「浜離宮」の面積はリーフレットによると250,215.72屬箸いΔら75,800坪、言い換えればタタミ15万畳以上である。私は以前不動産業の会社に勤務していたので、坪数で表現するとイメージが湧くが普通の人は何かに例えると解りやすいようである。
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「浜離宮」の特徴は海水を引き入れ、潮の干満によって趣を変える風情ある潮入の池があることである。また、潮入り池の岸から小の字島と中島を結ぶ延長118mもある総檜造りの橋も見どころだ。この橋は平成9年に架け替えられたという。
三百年の松や鴨場、中島の御茶屋にボタン園とお花畑、新樋の口山などをゆっくり散策すると東京にいることをすっかり忘れさせてくれる。
ここは穴場だ。あまりに近すぎて忘れていたが、会社からは自転車で15分もあればいけるところである。たまには「浜離宮」で歩きながら企画を練ってみるといい案が浮ぶかもしれない。東京も雑踏とビル群だけではないことを再認識した。

「浜離宮」を出て「築地」へ歩いていく築地までほんの5〜6分である。寿司でもつまんでビールを飲もうという魂胆であったが、何と午後2時を過ぎているというのにどこの寿司屋も長蛇の列である。休日で築地市場が休みのため「浜離宮」の余韻を残してゆっくりビールをと思っていたのが、東京の雑踏にあっという間に引き戻されてしまった。


「浜離宮」
江戸時代には江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。
1654年徳川将軍家の鷹狩り場、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後綱重の子、綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉の時代にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。維新後は皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と変えました。関東大震災や戦災によって御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日東京とに下賜され整備の後に昭和21年4月から公開されました。


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