January 27, 2013

「いのち」について考える公開シンポジウム

昨日、渡邉海旭先生校長就任百周年記念事業の一環として母校で開かれた「いのち」について考える公開シンポジウムに参加した。
副題は―第1回仏教の視点から―である。

母校は増上寺を大本山とする浄土宗系列の学校である。だから、卒業生に僧侶が大変多い。現在は浄土宗の寺社の子弟だけでなく、いろいろな宗派の子弟が卒業生の中にいるようになった。
今回のシンポジウムの基調講演は浄土宗大本山増上寺法主、八木季生 大僧正台下である。
いのちについての講話の中で、「いのち」は「いのち」からしか生まれない。地球上に最初のいのちが生まれたのは、大宇宙そのものが生命体であるからだ。という話は、中学生の時から当時の校長松本徳明先生が朝礼のたびに話していた「天地宇宙一切のものは、・・・」という話に直結し、スーと心の中に入っていった。「三つ子の魂100までも」である。

基調講演の後パネルディスカッションがあり、母校の卒業生、元教員の僧侶がいのちについて話をされた。
コーディネーターは、前副校長 曹洞宗西隆寺住職 遠藤弘佳氏
パネラーは、元教諭 浄土宗妙定院住職 小林正道氏、
卒業生 法相宗大本山薬師寺執事 大谷徹奘氏、
元講師 浄土宗龍原寺副住職 宮坂直樹氏
卒業生 浄土真宗本願寺派安楽寺住職 藤澤克己氏 
という方々である。
仏教という立場から「いのち」についてそれぞれのご意見を話されたが、特に印象に残った話は、「死の原因は生まれたことにある」だからどう死ぬかというのはさほど問題ではない。しかし、「理不尽な別れ(死)」というものがある。それは、「さようなら」ということを言えなかった別れ(死)である。これは、大変新鮮に思えた。
また、何時死ぬか分からないので、「さようなら」という言葉は別れるときに必ず言う。
食事のときにも物を詰まらせて死ぬかもしれない。また、寝るときにも目が覚めずに死ぬかもしれない。だから、食事のときも、寝るときもお題目を唱えるという。

これは、僧侶だからお題目であって、我々もそのとき、そのときをこれが最後になるかもしれないという覚悟を持って、日常を過ごすことが「いのち」を見つめることだと気付かされた。

また、薬師寺第百二十四世管主高田好胤氏の弟子である大谷徹奘氏が、故高田好胤氏と戦没者慰霊で各地の戦跡を法要して回ったとき、「自分のようなちゃらい(拙い)お経では死者が成仏できないことは分かっている。しかし、自分にはお経をあげることしか出来ない」といつもしぼりだすように言っていたという話しを聞いた。
あれだけの修行を積み、心から戦没者を慰霊していても死者の霊(いのち)をまだまだ慰められないと自分を厳しく叱る姿勢には心を打たれる。

その他、自死についての考え方や、一昨年の東北を襲った大災害の被災者への訪問のことなど、たくさんの「いのち」に関するお話があったが、それはまたの機会に書くことにする。

時々は立ち止まって、普段あまりつきつめて考えない重いテーマについて思考の限りを尽くして掘り下げるのも重要な気がする。


cpiblog00620 at 15:50│Comments(2)TrackBack(0)clip!こころ 

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この記事へのコメント

1. Posted by woven fusible interlining   December 08, 2013 17:44
米国→youtubeにうpする
日本→専用ハードウェアを作る
2. Posted by chanel uk   December 08, 2013 22:30
むしろ幸運な男だな

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