November 16, 2007

稲尾和久氏について考える

11月13日未明、元西鉄ライオンズの名投手稲尾和久氏が死去したという。稲尾投手といえば言わずと知れた鉄腕であり、昭和33年の日本シリーズで3連敗の後4連投4連勝で逆転優勝し3連覇を達成した。そして「神様、仏様、稲尾様」とまで言われた投手である。若い人でも稲尾投手を知らない人は少ないであろう。
この年はよく覚えている。住んでいた近くに東京タワーが完成し、セリーグでは巨人が優勝して大騒ぎをしていたのを小学生であったが良く覚えている。
日本シリーズで巨人が3連勝した後、誰も西鉄が逆転優勝をすると予想した人はいなかったはずだ。東京は巨人ファンが多く稲尾を打ち崩せ、西鉄に負けるなという声があちこちで聞かれた。当時はテレビというよりラジオで試合の様子を聞いていた人がほとんどであった。その時の実況中継の一部は次のようなものであった。
「第二カウントから、独特のモーションから第2球。打ちました。大きいこれはホームランか、レフトあきらめたか、ファールか、かまえた、いやホームラン。立役者今日のゲームの立役者稲尾、投げてよし、打ってよしホームラン稲尾のホームラン試合終了。逆転しましたサヨナラ勝ち4対3。抱き合って喜んでいます。三原監督ホームベースまで駆け寄りました。」

高校時代無名であった稲尾選手は、昭和31年バッティング投手として西鉄ライオンズに入団した。キャンプで黙々と主力選手に投げるボールを見て先輩の豊田泰光氏らが名将三原脩監督に進言して主戦投手に引き上げられたという。

稲尾氏の記録は今の生ぬるいピッチャーには考えられないだろう。日本シリーズ7試合のうち6試合に登板し、1シーズン42勝をあげたここともある。そして酷使に耐え、恨み言1つ言わず「丈夫に生んでくれた両親に感謝したい」といつも言っていたというから頭が下がる。

私がこんなに肩入れするのには訳がある。実は昭和53年ライオンズが西武に買収され福岡を去るとき、こんな歌が出来て福岡市民はライオンズが福岡を離れることを惜しんだのだ。
題名は「蘇れ俺の西鉄ライオンズ」福岡では大ヒットした歌であるが、ほとんどの人は知らないであろう。当時私は福岡に住んでいて署名運動にも参加し、「ライオンズを呼び戻す会」の会員にもなった。(この会は少し怪しい会ではあったが)もう30年以上前であるが、いまだに3番まである歌詞を覚えている。そして間奏に先ほど書いた実況中継がながれるのだ。曲の最後は次の実況で終わる。
「レフトフライです。仰木後退芝生に入りました。かまえています。つかみました試合終了。ライオンズついに奇跡の逆転4連勝なりました。いま稲尾がキャッチャーと握手をしています。」
仰木氏も稲尾氏もすでにあちらの世界に行ってしまった。


cpiblog00620 at 20:53│Comments(0)TrackBack(0)clip!雑感 

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