雑感

June 28, 2016

「いいね」と「ありがとう」について考える

ブログを休んで3年が経つ。

めんどくさくて休んでいたわけではない。題材が無くて書けなかった訳でもない。
フェイスブックとやらに現を抜かしていたからだ。
ブログと違ってフェイスブックは反応が早い。アップと同時に「いいね」が押される。
また、誕生日などはあちらこちらから、おめでとうが飛び込んでくる。
お礼の返信で慌しい。

一番多い投稿写真は食べ物である。他人の食べ物を見ても腹の足しになるわけでもない。
誰が何を食べてもあまり興味は無いのになぜか多い。

時々「いいね」の押し売りもやってくる。
そんなに「いいね」が欲しいのだろうか?
「いいね」の数が自慢になるのだろうか?
誰かと繋がっていないと不安なのだろうか?
ほんとはどうでも「いいね」なのだが・・・。

それでもフェイスブックには使い道がまだまだあるだろう。
現に私のブログへ誘うツールに使わせてもらっている。

100の「いいね」よりも、ひとつの「ありがとう」をもらえる方が私は嬉しい。
「いいね」は氾濫しているが、「ありがとう」は絶滅しそうである。
最近「ありがとう」を言った事がありますか?
小さなことでも「ありがとう」は、言ったほうも言われたほうも気持ちがいい。

フェイスブックを嫌っているわけではないが、私は、ブログへ戻ってきました。
ここで「ありがとう」を言ったり言われたりしていきましょう。

リアルタイムでなくても、共感できる言霊をぶつけ合いましょう。



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June 16, 2012

「東京タワー」について考える2


DSC_0059先月22日(2012年5月22日)私の61歳の誕生日であった。
しかし、世の中は半年前からスカイツリー、スカイツリーの大合唱で家族の中でも私の誕生日など全く置き去りにされていた。
当日は雨模様であったが、ものすごい人波でテレビを見ていても人酔いしそうな賑やかさだ。
東京タワー派の第1人者としては、「何がスカイツリーだ。ガタガタ騒ぐな」という感じで何事もない日のように装って過ごした。
あまり意地を張って何事もないように意識した為か、自分でも誕生日を忘れてしまった。

何で俺の誕生日を開業日にしたんだと恨みさえ覚え、絶対スカイツリーなんぞに昇ってやらないぞと誓いを新たにした。
冷静に考えると何でそんなにスカイツリーを毛嫌いするのか自分でも分からないが、きっと東京タワーへの哀れみの裏返しなのだろうと自分で分析している。
いきなり皆がスカイツリー派に寝返り、寂しくなったのかもしれないとも分析した。

2〜3日して東京タワーの前を通ると、彼が弟分のスカイツリーも贔屓にしてやってくれと言わんばかりに余裕を持って堂々とこちらを見ていた。
春の花の向こうに見える東京タワーは、誰が何と言ってもやはり日本一だ。


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April 28, 2012

「学校の桜」について考える

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小学校や中学校には必ずと言っていいだろう、桜の木がある。
入学式には桜の花は欠かせない。広い校庭に花吹雪が舞う光景は形容詞のいらない素晴らしさだ。

今年、東京の桜の見頃は4月8日の日曜日であったが、あいにく蓼科への出張があり花見酒というわけには行かなかった。翌日、次の日曜日まで花はもたないだろうと思いながら志村第六小学校の前を歩いていると、目の前に見事な桜が現れた。思わず立ち止まりしばらく眺めていると、教室から生徒たちが出てきて桜の木の下で遊び始めた。子供たちも桜の花びらが散る風情を楽しんでいるように感じたから不思議だ。

日本全国、校庭に桜の木がある学校は数知れない。マスコミに取り上げられる巨木や枝振りのいい桜も多いだろう。しかし、子供たちにとって一番の桜は母校の桜だ。これは間違いない。母校の桜には思い出がたくさん刻まれている。これはどんな素晴らしい桜でもかなわない。同窓会などで桜の季節、母校に寄ると桜の木の下で遊んだ思い出が蘇ってくる。桜の木の下に立つともうタイムスリップだ。あちこちから友達の騒ぐ声が聞こえてくる。思わず走りそうになるのだ。

学校の桜で多いのが、エドヒガン桜や枝垂れ桜、それに染井吉野だが、私はすべての学校の桜は「母校桜」でいいと思っている。


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March 20, 2012

「お国なまり」について考える

最近良くお国なまり(方言)をよくテレビやラジオで聞く。
3.11の震災後テレビに出てくる方々の言葉が飾らない地の言葉だからだ。東北地方の方々はお国なまりを気にする人が多いと聞いたが、いやいやお国なまりは美しいと事のほか感じている。

私の祖父母も両親も島根県出身である。祖父母や父が存命中は家庭でもよく島根弁が飛び交っていた。特に国へ電話するときは、丸出しの島根弁であった。
妻は生粋の火の国熊本である。結婚するまで熊本をほとんど出ていない。今では気取って標準語を話しているが、熊本へ帰るとやはり自然と熊本弁で全身が包まれる。

私は東京で生まれ、東京で育ったため標準語がお国なまりである。寂しいお国なまりである。標準語をいくらしゃべっても今注目の「絆」は生まれない。
お国なまりを聞くと父も母もほっとすると言っていたのが懐かしい。妻も熊本に帰り言葉が自然に出ると活き活きしてくる。義母も熊本市内から故郷の阿蘇山麓へ行くと元気になる。同じ熊本でも市内と山奥では言葉が違う。言葉は言霊と言って力がある。霊がある。

お国なまりを持たない身としては、寂しい限りである。九州には5年近く仕事で居たが、俄か熊本弁や博多弁ではしゃべらないほうがいい。ネイチャーなお国なまりだからこそ力があるのだ。
若い人たちの言葉は、テレビやラジオ、映画などでどんどん標準語化しているが、大切な宝物「お国なまり」を捨てないで欲しい。
きっと大きな力に言葉がなるときが来る。お国なまりは故郷そのものの無形文化財である。


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November 29, 2011

ぶらっと ダイコン畑

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先月のことになるが、天気が良いのでぶらっと三浦半島の三崎口へ出かけた。
駅で散歩マップのリーフレットをもらいソレイユの丘を目指す。3時間くらいのコースのようだ。15分くらい歩いたところからダイコン畑が広がる。収穫が近い畑やまだ芽が出始めたばかりの畑などまちまちであるが、土から顔を出したダイコンは妙に色っぽい。
ダイコン畑をぶらぶらと眺めながら歩いているうちにどうもコースを外れたようだ。ダイコン畑に魅了されてしまった。

コースに戻ったのは、30分後で延寿寺、円徳寺と周り長浜海岸に辿り着いたのは、駅を出てから1時間45分後であった。リーフレットを見てみるとここまでは約1時間の道のりである。45分もダイコン畑で足止めされた。
長浜海岸で海を見ながら一休み。さあ後どれくらいかと見てみると長浜海岸から栗谷浜漁港、荒崎公園を通り熊野神社、勧明寺を巡ってソレイユの丘へ行くには約2時間かかりそうである。そのとき気が付いた。駅からソレイユの丘までが3時間である。3時間のハイキングと思っていたのだが、帰りの時間を考慮していなかったのだ。このままソレイユの丘を目指すと昼食が食べられなくなる。そう思ったら急に腹が減ってきた。

ソレイユの丘はこの次にしよう。今日はダイコン畑の見学だ。
そうだ。いいダイコン畑を散歩させてもらったと言い聞かせて駅へ引き返す。
帰りには三浦ダイコンを買って帰ろう。
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October 26, 2011

余韻について考える

最近はがきや手紙を書く人が少なくなってきた。年賀状を年1回書く程度だという人が多い。それもパソコンで宛名を印字し、定型の挨拶は印刷されている。手書きは1字も無い。義理で出しているということがあからさまな年賀状は受け取っても何の印象も残らない。

一人一台の携帯電話時代に入り電話とメールでリアルタイムに連絡が取れる。
例えば、故郷から季節のものが手元に届いたとき、ほとんどの人は電話かメールで贈り主の父や母あるいは兄弟や友人に連絡する。贈り物のお礼を言って元気でいることを伝える。
電話にしてもメールにしてもすぐに連絡できるということからは便利な道具である。しかし、電話もメールも何か物足りない。何が物足りないのだろうかと考えていた。
そして、手紙をもらったときの気持ちと比べてみるとそれがはっきりした。
足りないものは「余韻」だ。

故郷からの贈り物のお礼を手紙の場合で考えてみた。
電話でお礼を言うのは照れくさい。そこで手紙でお礼と近況をしたためた。贈り主の父母はもう届いただろうか?ちゃんと受け取っているだろうか?と少し不安になる。3〜4日したそんな時、息子から1通の手紙が届く。すぐに開封したいが、あて先が贈り主の父の名前になっている。じっと我慢して父親が戻ってきたときにそれとなく「今日息子から手紙が届いたわ」と渡すと、父親も照れくさく、「開けてみろ」と母親に返す。母親が開封して読んで聞かせると父はうれしさを堪えて、「ふーんあいつも元気にやっているのか」そして母は「あの子も元気なのね」それだけで会話が終わる。しかし、二人ともうれしくてしょうがないのだ。母は父から渡された手紙をポケットに入れて翌日も読み返し、余韻を楽しむだろう。

1通の手紙やはがきには人を幸せにする力がある。余韻がその力を増幅させるのだ。電話やメールには無い「余韻」が手紙やはがきにはある。
大切な人にこそ拙い字でも手書きのはがきや手紙を是非出してもらいたい。
余韻を贈るために。


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September 27, 2011

国語について考える

9月15日文化庁が「国語に関する世論調査」を発表した。
国語、いわゆる日本語である。最近ではクイズ番組や出版物また、漢字検定などで国語や漢字への関心が高まっているが、慣用句と言葉の意味を取り違えていたり、ら抜き言葉を使ったり、「い」を除いた使用方法などが一般的に使われていて興味深かった。

近年、小学校へ入学する前から英語の勉強をさせ、将来国際的な社会人にしていきたいという希望を持っている親御さんが増えている。私の近くの幼児英語教室も大繁盛のようだ。国際的な人間に育てる。世界の人とコミュニケーションをとれるようにする。これらは大事なことで英語を学ばせることに何の異存もない。それと同じくらい国語も学ばせるということであればだが。

近頃は手紙を書かない。はがきを出さない。とにかく文章を書こうとしない若い親が増えてきた。そんな人に何か文章を書かせると、すぐにパソコンへ向かいネットで探してくる。それを貼り付けて文章を作ろうとするからわけの分からない文章になってしまう。自分の頭で文章を組み立てようとしない。だから知らない言葉や意味の分からない文章でもネットに出ていたのだからと平気で使ってくる。
こういう親が子供に他国語を学ばせて、どういう国際人を作ろうとするのだろうか?どういうコミュニケーションを他国の人ととろうとするのだろうか?

本当の国際人は自国の歴史や文化、言葉や単語の意味することをきちんと伝えられる人のことではないだろうか? 海外へ行き酒の席で大騒ぎをしてコミュニケーションだと言えるのだろうか?
それぞれが自国の事をはっきり、そしてきちんと紹介ができ、それぞれの意見をきちんと話せるというのがコミュニケーションではないだろうか?

国際人の第1歩は国語を学ぶことだと思っている。もちろん時代によって言葉は変わる。
それは仕方が無い。若い人は若い人の言葉があり、それが時代という時間の堆積で国語になっていく。
「ござる」であるとか「そうろう」と言う言葉を使う人はほとんどいなくなった。それとともに「い」抜きの「寒っ」や「すごっ」が一般化していくのが時代である。
それでも国語を学び、歴史に目をやり、文化に親しむ。その上で他国語を学んだらどうかといつも思っている。

自国語もB級、他国語もB級、これで国際人なのだろうか?


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August 04, 2011

「アサガオ」について考える

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この時期、毎年ベランダでアサガオを育てる。
次女が小学生の夏休みに持ち帰ったアサガオから採れた種を蒔き始めたのが始まりなので、もう17年になる。毎年5月の後半から6月のはじめにかけて鉢やプランターに種を蒔く。咲く花の色は決まってピンクである。紫や斑模様の花は咲かない。秋になると種を収穫して小さな名刺箱に入れて保存するのだ。17世代のアサガオが今年も元気に咲いた。今年の1番アサガオは6月30日、2輪鮮やかなピンクに染まって咲き始めた。それから今日まで毎日花を咲かせる。
来週からは1週間妻と三女を連れて熊本へ行くため、アサガオの世話は二女に引き継ぐ。自分で持ち帰ったアサガオなのにどうも面倒くさそうである。枯れさせないように毎日水をやるんだぞと言うが、上の空である。

そういえば、ラジオ番組の「子ども相談室」で先日アサガオの育て方を話していた。アサガオは夜暗くするといいそうだ。夜の暗さが長いと大きな花を咲かせるようだ。
街灯の下など明るいところでは布を鉢の上にかけると良いそうだ。
そうか、それなら今年はアサガオにとって好都合な夏になりそうだ。
とにかく今年の夏は節電だ。工場や倉庫、また事務所の周りのアサガオにとっては好都合だろう。工場の休みも長いし、事務所も明かりを極力落としている。
我が家のベランダの周りのネオンや建物の明かりも心持暗いようだ。しかしどうだ我が家の三女(高校生)は夏休みをいいことに夜更かし三昧だ。ベランダにも部屋の明かりが漏れている。アサガオが大輪を咲かせるためにも改めて厳しく夜更かしを戒めなくてはいけない。


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June 16, 2011

「忙中、閑あり」について考える

最近ブログが更新されていないじゃないかとお叱りを受けた。
そう言えばうっかりしていた。もう1ヶ月半も更新していない。
言い訳はたくさんある。20でも30でも言い訳は言える。
仕事でも出来ない理由を言う人は多い。グタグタと出来ない理由をよくもこんなにあるなというほど出す人がいる。こんなに出来ない理由を考えるくらいなら、さっさと仕事をすればいいのにと思ってしまうほどだ。

「忙中、閑あり」という言葉を思い出した。
忙しい、忙しい、と慌てふためいている中にも、足元を見直せば必ず閑が存在している。閑というものは自らが見つけ出すものである。ついつい忙しいとその中に心が埋没し、忙しさの中に飲み込まれてしまう。まず自分を見失わずしっかりと足元を見つめると、不思議と時間が落ちているものだ。
「忙中、閑あり」の如く対極にあるものが、反発せず同居している言葉に次のようなものがある。
暗中に明あり。
嫌中に好あり。
寒中に温あり。
動中に静あり。
苦中に楽あり。
死中に活あり。
疑中に真あり。
信中に偽あり。
どんな時や事態にも裏と表が必ずある。
だから、悲観する必要もないし、有頂天になってはいけないのだ。

「忙しい」からブログを更新できなかった、という言い訳は、自分の能力がない。自分を冷静に見られない。そんなことを公表していると同じことだと気が付いた。
暇すぎてブログを書けなかった、ということにしておこう。
いや待てよ、そうすると「小人閑居して不善をなす」と言われそうだ。
いずれにしても言い訳は良くない。潔くサボっていましたと、謝ろう。


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April 19, 2011

花見の自粛について考える

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東北地方太平洋沖地震の影響で花見や宴会、旅行に歓送迎会、お祭りまでが自粛の憂き目にあっている。
確かに地震や津波、原発事故の大災害に遭われた方々のことを思うと酒を飲んで大騒ぎをする気にはなれない。しかし、この沈滞ムードはいったい何なのであろうか? どこもかしこも予約のキャンセルと新たな申込の自粛で困っているという。
被災者の方々はそんなムードを望んでいるのだろうか? いやむしろ被災地からも地元の酒を飲んで、旅行に来て、桜の下で花見をして楽しんで欲しいとメッセージを送ってきている。

この時期、桜の下でカラオケをガンガン鳴らして乱痴気騒ぎはひんしゅくをかうが、家族連れや職場の仲間、気の合う者同士で桜を眺めて酒を酌み交わすのは大いにやるべきだと思う。
4月10日の日曜日、30年ぶりに井の頭公園に桜を見に行った。この季節は毎年母校の桜祭りが開催されるため、吉祥寺まで来ていながら井の頭公園に足が向かなかった。
今年は、早々に母校の桜祭りの中止が決定し、寂しく思っていたところ井の頭の桜を思い出したという訳だ。
吉祥寺の駅から長蛇の列で公園に向かう人達に交じって公園にたどり着く。今年は馬鹿騒ぎをしているグループはさすがにいない。少人数での花見が多いように感じられた。この季節、桜を見なきゃ始まらないという人たちが多いのに安心した。
被災地にも桜の季節がもうじきやってくる。東京では一足先に桜の花見を楽しませてもらうが、地震や津波で亡くなった方々への哀悼の意は忘れない。こうして桜の下で酒を酌み交わせる幸せを感じながら、元気を貰っているのだ。桜の木には不思議な力があるように思う。あっという間に咲いてあっという間に散っていく桜だが、その1週間が多くに人に不思議な力を与えてくれる。こんな素晴らしい花見を自粛するのは如何なものかと改めて思った。

東北には神通力のある素晴らしい桜がたくさんある。今年も忘れずに満開の花を咲かせてくれるはずだ。是非復興を誓って皆さんで花見をして欲しい。そして、桜から大きな力を頂いて復興の弾みにして欲しい。

そうだ一つだけ忘れずに!
花見の酒や肴は東北の地元のものを積極的に買って、飲んで食べて大いに応援しましょう。


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March 21, 2011

東北地方太平洋沖地震について考える

3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震それに伴う大津波、火災で被災し、亡くなられた方々に心より哀悼の意を表するとともに、怪我をされた方々、家を流された方々、そして避難をされ不自由な生活を強いられている方々に心よりお見舞い申し上げます。
また、命の危険にさらされながらも被災者の救援や物資の運搬、復興への道筋に奔走している自衛隊、消防隊、警察官、地元自治体職員、ボランティアの方々のご苦労に頭が下がります。

あれから10日、死者、行方不明者の数は2万人を突破し、まだ増え続けている状況です。
福島第1原子力発電所の事故も重なり全容はいまだはっきりしていません。
毎日、テレビ、新聞等で被害状況を報道していますが、目を覆うばかりの惨状に心が痛みます。
しかし、どうでしょう被災者の秩序正しい行動と互助の精神、また、全国から寄せられる多くの励ましと援助の申し出。このような大災害の中、これほどまでに秩序を保てる民族が他にあるでしょうか? 暴動も略奪もなく自分の家族や親戚が目の前で亡くなっているにもかかわらず他の人のために手を差し伸べる民族があるでしょうか? 
私はこの大災害は筆舌に尽くせぬほどの惨禍を住民に与えましたが、その大災害が奇しくも日本人の誇りと秩序、互助の精神を世界の人たちの目に焼き付けたのではないかと思っています。

被災者の方々から出る言葉は、恨みや嘆きの前に感謝の言葉が多いのにびっくりしました。一握りのおにぎり、一杯の味噌汁、1週間ぶりのお風呂に涙を流して感謝しています。心のそこからの感謝だと誰の目にもはっきり分かります。

政府や東電の手際の悪さや行き違いなど被災者にとって苛立つことも多いと思います。それでも心の底では東電や協力会社で働く人たち、それを助ける自衛隊、消防、警察、自治体など力を合わせている人たちを信じているのだと思います。きっとやってくれる。自分達の安全を確保してくれる。そう信じているのだと思います。
だから、秩序を保って耐えているのです。日本人は信頼で繋がっている。私には今回改めてそう印象付けられました。

安全なところに身を置く人ほど「命がけ」という言葉を使いたがります。政治家にはその傾向がとても強いと今回も感じました。やたら「命がけ」を連発しています。本当に命がけの現場で働いている人たちからそんな言葉は出てきませんでした。皆自分がやらねば。これが自分の任務です。被災者の方を一人でも救いたい。警察官になってよかった。感謝の言葉が励みになります。そんな言葉ばかりである。私は命がけで人を助けましたなどという人は一人も見かけなかった。
政治家の方々、これからはこう言ってください。「命がけ」で働いている人たちに政府として精一杯応援していきたい。そう言ってください。あなたではない本当に命がけで現場にいる人たちに声をかけて応援を惜しみなく送ってください。

また、悲観的なことばかりをメールで送ってきたり、ブログに書いたり、ツイッターやフェイスブックでつぶやいたりする人が増えてきています。
こんな時こそ元気が出てくるメールやブログで応援しませんか。悲観的なことは専門家に任せておきましょう。
積極的な気持ちには積極的な現象が起きてきます。希望には希望が応え、悲観には悲観が応えます。

世界が見ています。日本人の誇りと秩序、相手を思う互助と連帯、胸を張って悲しく長い道のりですが、復興へ進んでいきましょう。みんなが応援しています。今まで以上に。


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March 11, 2011

「政治家」について考える

政治についてはブログで書くことを控えてきた。政治に興味が無いわけでも、詳しくないわけでもない。
父は地方議員であったし、先輩や後輩に国会議員や地方議員も多い。また、私自身も法学部の政治学科を卒業して政治については関心が高い。しかし、ブログで政治家や政治のことについて書くのは遠慮してきた。報道されていることや表面での印象で政治を語るのは過ちを犯す危険が高いからである。憶測や興味で語るほど政治は軽くない。政治についての重みを十分理解しているつもりだ。

だが、今回だけはどうしても書かなければならない。衆議院議員土肥隆一という政権与党の国会議員が韓国ソウルで開かれた集会で、日本政府に対して竹島の領有権を放棄するよう訴える韓国側との共同宣言に署名していたという。
この記事を見た時、一瞬目を疑った。彼は韓国に亡命するつもりなのだろうと本気で思った。自分が所属している政権党の「竹島は日本固有の領土」だという方針と真っ向から反対する言動だからだ。
しかし、その後のインタビューを聞いてさらに驚いた。何と「これほどの大騒ぎになるとは思っていなかった」と話したのだ。この人物はわれわれの税金で国を任せている国会議員なのだろうか?
国会議員の役目とは何か? いろいろ役目もあるだろうが、基本的には3つしかない。
国民の安全と財産と国土を守ることだ。そのために命を賭けることも辞さないという気構えがあってこその国会議員なのだ。
日本固有の領土をいとも簡単に手放すような人間に国会議員の資格は無い。こんな人間が7回も当選していたというのも驚きだ。また、首相の側近だということを聞いてはあきれ返ってしまった。

よく国会議員に立候補するタレントやスポーツ選手などの抱負を聞くと、今までの経験を活かしてスポーツの振興に寄与したいだとか、福祉の勉強をして高齢化社会の日本を住みやすくしたいというようなことを話す。それはそれでいいでしょう。しかし、その前に何故国民の安全と国土を守るために立候補する。そのために私は何と何が出来るということが言えないのだろうか? まして、当選して国会議員になってもオリンピックを目指します。と言って当選してしまう議員もいるのだから日本は本当におかしくなってしまった。

国会議員は命を賭けるに値する職である。
そこでは韓国の議員が多く、会場がそういう雰囲気になっていたところで水をさすような行動を取れなかったなどという言い訳をする議員は日本にはいらない。
どんなところであろうと、こんな共同声明に日本の国会議員としてサインなど到底出来ないと言って帰ってきてこそ日本の国会議員だ。たとえその場で殺されても国土は私が守るという気概が微塵も感じられないのは情けない。税金だけを使い、国民を愚弄する行為である。

どうも愚痴ばかりになってしまった。
政治を語らせるとついつい熱くなってしまう。だからあまりブログでは語りたくないのだ。
今回は特別編ということで、ご容赦ください。


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December 31, 2010

2010年大晦日

今年もいよいよ大晦日となった。
振り返るとすべて短く感じるものだが、多くの出会いや別れがあった。やりたいことの半分、いや3分の1も出来ていない気がする。毎年同じ思いをするが、それでも前に進んでいるのだろうと自分を納得させている。

今年「トイレの神様」という歌が大ヒットした。
この歌を最初に聞いたとき、やっぱりという思いと、やられたという思いが交差した。
10数年前、こんな話を聞いたことがある。ある人が世界中の富豪の方々を訪問してインタビューをした。成功して富豪になるための共通点を見出そうとしたのだ。しかし、インタビューをしたすべての富豪に共通した事柄は見出せなかった。がっかりして帰路についているとき、ある同行者がそういえば共通していることがひとつあったと叫んだ。皆がそれはといって聞き出すと、なんと共通していたのは、すべての家のトイレの蓋がしまっていたというのだ。便器の蓋が開け放たれていたところはなかったというのだ。
そうか、お金はトイレから逃げていく。だから蓋をしているのだ。そう悟ったという。それから自宅に戻り、いつもトイレを掃除して蓋を閉めて出ることにしたらしい。それから事業が軌道に乗り出し富豪の仲間入りをしたという。
この話は、嘘か本当かはわからない。真実をつきとめようとも思わない。しかし、「トイレの神様」という歌を聞き、やっぱりという思いを強くした。

ことしの大晦日も会社のトイレを掃除して1年の締めくくりとする。もう10年以上繰り返しているが、まだトイレの神様は私を認めてくれていない。でも来年はどうだろう。そろそろという思いを持っているが、そんなことを思っているうちはまだ認めてくれないかもしれない。

今年も1年ありがとうございました。来年はもっとパワーアップしますので、よろしくお願いいたします。


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November 09, 2010

修行について考える

最近、修行(心や体の鍛錬)はどこでするのが一番か、いろいろと考えさせられる。
イチローはなぜあれほど野球に打ち込むのか?白鵬はなぜ土俵で無敵なのか?
彼らはどこで修行をしているのか?
深山幽谷の中か? 絶海の孤島か? 静寂と香のたかれた畳の上か? 轟音をとどろかせた滝の前か? どこで修行を積むとあれほどに成れるのか。
イチローはグランドの中で、白鵬は土俵の中でしか修行を積めない。それはそれぞれが修行の成果を出す場所でしか本当の修行は出来ないからだ。
剣聖といわれた宮本武蔵も、立会いの中で修行を積んできた。その成果を持って幾十度と戦いを制してきたのだ。

われわれはどこで修行を積むと良いのか。答えは明確である。それは日常の中でしか修行を積むことは出来ない。瞑想をするのも良いだろう、座禅を組むのも良いだろう。一人旅するのも良いかもしれない。しかし、それらは修行を積むための準備に他ならない。修行は日常の中でしか出来ないのだ。
修行の成果を出すのは、家庭であり、地域であり、職場のはずだ。だとすれば、修行は家庭や職場や地域の中でしか出来ないはずだ。

そう考えると、気持ちが楽になる。毎日の愚痴や怒りや不満などをじっとこらえていくことから修行が始まるのだ。
その修行の成果を、家庭であり、地域であり、職場で発揮できればイチローにも白鵬にも負けない哲人になれるはずだ。

大日本帝国連合艦隊総司令官 山本五十六元帥の「男の修行」という詩を改めて読み直す。

「男の修行」
苦しいこともあるだろう。
云いたいこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣きたいこともあるだろう。
これらをじっとこらえていくのが男の修行である。


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September 23, 2010

時は天使か悪魔か

時間というのは、万人に平等に与えられている。1日24時間で一人に1日しかあてがわれない。そんな「時」というものが、天使になったり、悪魔になったりする。
昔からよく言われている「時薬」(ときぐすり)などは優しい天使であろう。苦しいときや、悲しいとき、辛くて耐えられないときなどは、時間がゆっくりと癒してくれる。憎しみも「時薬」が効いて和らぐ。

しかし、楽しい時を奪ってしまうのも時間である。もう少し、もう少しここに居たい。あと少し一緒に話をしていたい。そんなささやかな希望さえ時は無慈悲に奪ってしまう。
時には意思がない。ただ天地の運用に合わせて過ぎていく。
その中で、天使と感じたり、悪魔と感じたりしていくだけだ。同じ場所で同じ時間を共有していても天使と感じる人もいれば、悪魔と感じる人もいる。

生まれたときから、私たちは死というものに向かって進んでいる。いつまでも同じところに留まることはできない。死というところを見つめたときには、時は残酷であるが、成長というところに視点を当てると時は希望になる。
時をコントロールすることはできない。コントロールできるのは自分自身だ。目に見えない「時」を天使と感じるか、悪魔と感じるかはその人しだいであるが、一番哀れなのは、天使とも悪魔とも思わずに惰性で1日を過ごしてしまう時だろう。

明日の私にとって「時」は、天使か悪魔か。


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July 29, 2010

硬い風と軟らかい風

真夏である。
連日30度を超える猛暑でぐったりである。

先週の日曜日久しぶりに家で本を読んでいた。読みたい本が溜まっていたが、やっと少し時間が持てた。
外は35度近くあるだろう。クーラーを入れてもあまり冷えない。これは手入れをしていないせいもあるだろうが、・・・。
クーラーから出てくる冷気は硬い。体に当たると身構えて体も硬くなる。本を読んでいても何か疲れる。
ベランダを見ると朝顔の葉が揺れている。そうだ、窓を開けて風を入れてみようと考えた。

クーラーを止め、ベランダの窓を開け、キッチンの窓と玄関のドアも開けて風の通りを良くした。生暖かい風が吹き抜ける。しかし、なぜか気持ちがいい。体が緩んでいく。まだクーラーが家に無かった頃の風と同じだ。あの頃は昼に食事をした後、必ず昼寝をした。子供たちは皆そうだった。夏休みには親から昼寝をさせられた。遊びたくてしょうがなかった年頃であったが、昼寝を強制されたものだ。

思い出してリビングのジュータンの上に横たわる。腕を広げて大の字になって横になる。あの時と同じだ。体が無防備になっていく。ジュータンの中へ沈んでいくように体全体が軟らかくなる。クーラーの風とは全く違う。生暖かいが、軟らかい風だ。そんなことを思っているうちに意識が遠くなり、寝てしまった。1時間くらい経ったであろうか、背中にじわっと汗をかき目が覚めた。50年前と同じだ。あの頃もランニングシャツに汗をかいて目が覚めた。

本を読む時間をまた無くしてしまったという後悔よりも、軟らかい風の発見に心が躍った。
これからも玄関を開けられるときは、この風を入れよう。
軟らかい、体が無防備になる風を入れよう。これなら溜まった疲れも溶け出してしまう。
それに何より省エネだ。


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July 01, 2010

幸せ」と「仕合わせ」について考える

サッカーのワールドカップは熱戦を繰り広げている。
日本は決勝リーグに進出し、パラグアイ戦で延長の末、PKに持ち込んだが、3―5で惜しくも敗退した。
しかし、素晴らしい戦いであった。各国のメディアも日本の戦いを賞賛し、ベスト8に匹敵すると報じていた。
個人プレーが多い海外勢だが、日本はチームプレーが光っていた。何より肩を組んでPKを見守る姿に日本のファンは感動したはずだ。
監督やコーチ、選手たちそして私たち観客も素晴らしい代表を持てて幸せであった。

「しあわせ」と言えば、少し前まで「仕合わせ」と書く人が多かった。手元にある昭和46年の旺文社国語実用辞典には「仕合わせ」という漢字で出ている。

そういえば、1週間前の産経新聞のコラムでも以下のような文章が載っていた。
「幸せ」は個人でつかむというイメージが強い。一方の「仕合わせ」は、だれかと「し合わせる」ことによって得られるものだ。

今回の私たちが得た「しあわせ」は正しく、皆と「し合わせた」「仕合わせ」であった。
ここでの「しあわせ」は「仕合わせ」と書くべきだった。

ワールドカップの喧騒で、すっかり忘れ去られているようだが、今は参議院選挙の真最中である。ワールドカップも大事であったが、日本の行く末はもっと大事である。サムライブルーの応援の10倍ものエネルギーで候補者を見極めてもらいたい。
政治家の「幸せ」をアシストするのではなく、国民の「仕合わせ」のため、参議院選挙の候補者や政党を見極めたいものだ。


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April 21, 2010

花見のはしご

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この時期桜のことを書かない訳にはいかない。
4月の第1週、桜が見ごろだというので花見に出かけた。それもはしごで欲張りの花見となった。
飛鳥山の桜をまだ見たことがなかったので先ずは飛鳥山へ。大変な人であったが、山の上の一角に陣取り持参のおにぎりと缶ビールでサクラを堪能した。
その後、上野へ出てサクラを見たが、飛鳥山どころではない。サクラの花びらよりも人の数が多い。あちらこちらで大騒ぎだ。日本人はサクラが好きだ。いや花見が好きなのだろう。これほどの人出は花見でもなければ見られない。昨今不景気で手軽なレジャーに人気があるが、花見だけは好景気だろうが、不景気だろうが変わりがない。
何と言っても『古事記』の上巻に「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」が出てくる。解説は省略するが、古代人も花見(この頃は豊作を祈る神事)をしていたようだ。IMG_0020_1
歴史のある花見だ、日本人の体に染み付いているのだろう。DNAがサクラを見ると疼いてくるのだ。

上野の後はやはり隅田川のサクラだ。浅草へ出て川面に映えるサクラを満喫する。ここからスカイツリーがよく見える。東京タワーの高さを抜いて日本1になったとはいえ、まだ建築半ばである。完成したときの世界1となる異様な高さとサクラのコラボレーションはどんなものだろう今から楽しみである。IMG_0031_1
浅草へ来ると必ず買うものがある。神谷バーの「電気ブラン」である。なぜか懐かしいこの味が好きで必ず買ってしまう。今回も2本「電気ブラン」を購入し、ちびちびやりながらサクラを楽しむ。
これだから花見はやめられない。


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April 01, 2010

「東京タワー」と「東京スカイツリー」

東京タワーがついに日本1の座を譲り渡した。
墨田区の東京スカイツリーが先日東京タワーを抜き去った。

東京スカイツリーは634mとなり、世界1となる予定だ。
52年前東京タワーが完成したとき、こんなすごい建物を良く作ったものだと半ば呆れるくらいに驚いた。
見上げると天を突くようだった。その東京タワーがこどものおもちゃのように見える、東京スカイツリーとは、天をも恐れぬ建造物である。
インターネットなど無い52年前、東京タワーが出来上がる様子を見られるのは、近くにいる私たちだけの特権であった。そして、自慢であり誇りであった。
ところが、今はどうだろうインターネットで東京スカイツリーを検索するとなんと948万件もヒットした。
毎日毎日、出来上がる様子をどこにいても見ることが出来る。それどころか完成した風景や四季折々の様子まで見られるのだ。
誰にも平等にそして時間差無く東京スカイツリーが目の前に現れる。

私はまだ東京スカイツリーの近くへ行ったことがない。足が向かないのだ。何となく気が引ける。幼馴染の皐月章太郎(ペンネーム)君なら何と言うだろう。子供の頃から憧れてきた東京タワーに何と言い訳するのだろう。彼に聞いてみたい。

モスラが孵化した東京タワー、ゴジラに火を吹きかけられた東京タワー、足が震えながら階段を上った東京タワー、子供に自慢しながら見上げた東京タワー、田舎の姪や甥を案内した東京タワーを私は忘れない。日本1の高さを明け渡しても私の中ではいつも一番の東京タワーなのだ。

今、東京スカイツリーの近くにいる子供たちが私と同じような思いをきっと将来抱くであろう。彼らにとって東京スカイツリーが自慢であり、誇りになるはずだ。

東京スカイツリーが完成したとき、52年前の東京タワーのように観光客でごった返すだろう。そのとき静かになった東京タワーに改めて上ってみたい。


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March 06, 2010

「交通事故」について考える

私は16歳のときに軽自動車の免許を取得してスバル360という車でデビューした。
それから42年、今まで1度しか交通事故に遭っていない。今から20年くらい前、熊本の阿蘇一宮へ向かう57号線で信号待ちをしていたときに追突された。幸い私も同乗者も怪我は無く事なきを得たが、真夏の暑い中で、警察官の立会いで実況検分が行なわれた。パトカーが来るまで30分、立会いと加害者との話し合いのため1時間ほど炎天下に立っていたのでぼーとしたことを覚えている。

それから20年、2月の後半に2回目の交通事故に遭った。今度は広い道路で私の車が右折し、横断歩道の前で止まる寸前に、反対車線に停車してあった車が突然バックして運転席のドアーにぶつかった。全く後方確認をせずにバックしたと加害者も詫びた。
運転席のドアーは相当へこんだが、幸いこのときも右腕の肘を少し打っただけで済んだ。今も多少肘が痛いので通院はしているが、生活に支障は無い。

42年間で2回というのは少ないのか普通なのか分からないが、2度とも被害者でそれも100%近く加害者側に非があると結論付けられたので、保障はしていただいた。
交通事故というのは、いくら自分が注意していても起きることがある。故意で事故を起こす人は稀である。しかし、交通事故がなくならないのは、慣れや不注意、慢心で心が霞むからだ。
車というのは凶器である。どんなかよわい女性でも車に乗り込んだ瞬間から鉄人になる。完全武装したとてつもない強力な鉄人に変身するのだ。飲酒運転などはもっての外であるが、自分が凶器を走らせているという自覚を持って集中し、車を走らせないといつ加害者となってしまうか分からないのだ。

「贖いの日々」という小冊子が交通安全協会から配られる。その中に交通刑務所に入った人たちの懺悔の手記が載せられている。加害者の家族や友人も被害者になってしまうことがよく分かる。善良な人が僅かな不注意で一生を悔いて過すことになる。
平成に入り交通事故死者数が1万人を超えていたが、平成8年から少しずつ減り始め一昨年から54年ぶりに5,000人台まで減ってきた。
大変に良いことであるが、それでも年間5,000人以上の方が交通事故で亡くなっているのだ。

私が16歳で運転免許を取得したとき、父が言った言葉を今でも覚えている。それからは言われたことを実践している。集中力の訓練にもなるからだ。
父は、「車に乗ったら自分の車だけを運転していると思ったらダメだ。前後左右の車も自分が運転しているつもりで注意しろ」と話してくれた。
前後左右の動きを予測しながら走るのは相当集中力が必要になる。だから、私が運転しているときは、家族はほとんど話しかけない。


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February 08, 2010

百貨店」の思い出

平成21年の全国百貨店売上高が6兆5842億円と26年ぶりの低水準に落ち込み、今年は百貨店の閉鎖が昨年の9店舗を上回る10店舗にのぼると言われている。
西武有楽町店や京都四条河原町の阪急などの閉鎖は「どうして」とつい言い出してしまうのは私だけではないだろう。いよいよ重厚長大で不沈艦のような百貨店の時代が終わりを告げ始めた。

百貨店といえば私にはほろ苦い思い出がある。

今から50年以上前私がまだ小学校に入る前のことである。日曜日に母が銀座の有名百貨店に買い物に行くというので、一緒について行くことにした。当時デパートに連れて行ってもらうことなど年に数回しかない出来事であったからである。
デパートに着き、エレベーターではなく、正面の堂々としたエスカレーターで上がって行った時のことである。エレベーターには以前何度か乗ったが、エスカレータというものは初めてであった。しっかりベルトに捕まっていなさいと母に言われた私は、2階に着いても手を離すタイミングがわからず、ベルトの引き込み口に挟まれてしまったのだ。「わー」という私の声でエスカレーターガールが慌てて非常停止ボタンを押し、エレベーターを止めた。当時は各階にエスカレーターガールがいてその階の説明をしていたのだ。
何人かの従業員が駆けつけ、ベルトの引き込み口のカバーをはずして手を引き出し医務室のようなところへ運ばれた。幸い大事には至らず、擦り傷程度で済んだのだが、黒塗りのハイヤーで母と自宅まで送り届けてもらい、豪華なお菓子の詰め合わせを頂いたのを覚えている。翌日にも何人かのお偉方が来て父母に謝っていた。
それから安全対策ということであろう、どこのデパートでも大きく開いていた引き込み口が塞がれ、手が入らないようになった。
子供とはいえ、私が悪かったのだが、当時デパートというところの対応は凄いものだと思った。
その後、母が父から相当怒られたようだ。父はデパートを責めるという感覚はなかった。親がしっかりしていないから子供が怪我をするのだという発想のようであった。
その後、私が手を挟まれたエスカレーター擁する百貨店は高度成長の波に乗り発展していったのだが、今度は社会の激しい変化に対応できず百貨店自身が大きな波に飲み込まれてしまった。

百貨店に変わり、大きな波を起こしたのが、ネット通販である。姿は見えないが確実に売り上げを伸ばしている。自宅や会社から時や場所を選ばず注文でき、翌日には配達される。確かに手軽であり、過疎地に住む人や高齢者は言うに及ばず誰にとっても便利である。
しかし、かつて百貨店が劇場などとともに都市生活者の憧れであり、文化の牽引車であった事実は忘れてはならない。
あの頃の百貨店は、威風堂々としていて日本の発展の象徴であった。
われわれにとって、百貨店の衰退は寂しいものである。


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December 31, 2009

2009年「年末」について考える

今年も12月31日が来た。

テレビや新聞ではこの1年の重大ニュースを特集している。
今年も多くのことがあった。多くの人が鬼籍に入った。毎年のことであるが、年末には皆今年を振り返り、来年に向けて希望を燃やす。今年が最高だったと思う人は少ない。ほとんどの人が来年は今年以上にいい年でありますようにと念じている。これは今年ばかりではない。毎年同じ気持ちになる。

人は、必ずといっていいほど未来に希望を託す。それは、未来に希望がなければ生きていけないからである。どんな状況であっても、人は希望を持っている限り生きていける。
なぜ、こんなことを年末に思ったのか? それは年末にかけてあまりにも自殺者が多かったからである。電車に乗るたびに、どこどこで人身事故のため電車が遅れるとアナウンスがある。人身事故と曖昧に表現しているが、実際はほとんど飛び込み自殺であろう。
年末に暗い話で恐縮であるが、来年に向けてどうしても考えてしまうのが、勇気と希望である。
お金がなくても、名誉がなくても、孤独であっても、勇気があれば希望が持てる。希望を持てれば未来が開ける。未来があれば前に進める。前に進めば人生が躍動してくるはずだ。

勇気というのは、心の冒険から湧いてくる。
冒険を行うには、力が必要である。それも心の力である。
挫折しそうな心を立ち直らせる心の力だ。
実は、誰の心にも大きな力があるのだが、それに気づいていない。

そうだ、「心に力ありといえども、養なわざれば、日に泯(ほろ)ぶ。心に霊ありといえども、磨かざれば日に昏(くら)む」と言われている。
来年は、心を養い、心を磨いて充実した1年を過ごそうと年末に改めて想う。


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November 07, 2009

激安ジーンズについて考える

最近激安ジーンズがあちらこちらのチラシに載っている。
大型スーパーで850円、他のスーパーでも990円、880円そして690円も登場した。
普通ジーンズメーカーのものは1万円前後、安くても5,000円が相場だと思っていた。昼食代と同じような金額でジーンズが買える。それも穿き捨てのような粗悪なものではなく、立派な穿き心地のジーンズである。

ジーンズが1,000円を切った価格で本当にいいのだろうか?
確かに安いほうが消費者にはいい。しかし、製造現場では大変である。他の企業とのコストダウン競争のため、海外に生産を移す。製造過程のあらゆる費用を見直す。消費者のニーズに合わせると生産、販売側は主張するが、そこで働く人たちも消費者であり、生産者である。安いものを求める気持ちは十分分かるし、私も望みたい。しかし、物には相場というものがある。そして、激安にはデフレという怪物が忍び寄ってくる。

物が安くなって給与が据え置かれると、実質給与は高くなる。名目給与は同じでも物価が3%下がれば給与は相対的に3%高くなる。そうなると経費削減のため安い給与の人を雇うようになり、安い地域へ生産が移動する。
どの企業もこの時期、給与はそうたやすく上げられない。一度上げた給与を落とすというのは、相当抵抗があるからだ。本当は物価が下がっているのだから、給与も下げたいというのが、経営者の本音であろう。自社の製品の価格を下げるということは、全ての経費を下げていかなければ、同じ利益を出せない。そうなると消費者という自分には利益になるが、生産者という自分には不利益になる。
だから、物には相場があるのだ。安ければいいというものではない。きっとしわ寄せがデフレという怪物になってやってくる。すでに日本はデフレ状態だ。
こうなると給与は上がるどころではない、ダウンならいいところで、リストラという道に引き込まれることになりかねない。そこを消費者であり、製造者である自分が考えなければいけないと思う。

数十年前、高かった新品のジーンズを親に買ってもらったとき、嬉しくて嬉しくて、大事に大事に穿いていたのを思い出した。10年以上穿いていただろう。
しかし、激安と謳われた690円のジーンズを買ってもらった子供が、ジーンズをこんなに大事にするだろうか? 長い間愛着を持って大切にするだろうか? すぐ飽きて、違うジーンズを買ってもらうのではないか。
物に愛着を持ち、大切にするという感情を「激安」は奪ってしまうような気がしてならない。


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October 12, 2009

「東京オリンピック」について考える

2016年の第31回夏季オリンピックは、リオデジャネイロに決定した。
圧勝と言ってもいい勝ち方であった。下馬評で優位に立っていたシカゴは1回目の投票で敗れ去った。東京は2回目の投票で敗れた。シカゴの票を取れなかったどころか1回目より票を減らしてしまった。

原因はいろいろ言われている。
IOC(国際オリンピック委員会)が掲げている開催に当たっての条件というのは、施設面やセキュリティー、運営能力、財政面などであり、それらが評価のポイントになるという。これらを一つずつ検証すれば総合点で東京が1番であったと思う。しかし、東京は敗れたのだ。当の石原知事が、オリンピックというお金に換算して数兆円の経済効果をもたらすイベントには、当事者国だけでなく、その周辺国、関係国の大きな力が働くといっていたが、その部分も確かにあるであろう。また、ロビー活動で遅れをとったとか、国内の支持率が低かったとか、東京は2度目だからとかいろいろいう人がいる。いちいちもっともである。だが、本当の理由は国の威信をかけたリオデジャネイロの無邪気、無条件の熱気ではなかったかと感じた。南米初のオリンピックに情熱を燃やすリオデジャネイロいや、ブラジルの勢いに勝てるものなど無いと投票が終わった後に感じた。

同じようなことを京都大学教授の佐伯啓思氏が某新聞に書いている。

・ ・・前略 ・・・戦後の日本においては、国家とは、人々の必要を満たし、生存や安定を確保する機構とされている。むろん、これはきわめて正しい見方である。だが、世界の多くの国は、国家をそうは見ていない。国家とは、国民の「名誉」や「威信」を世界に示す装置であり、ここには激しい競争があり、国は、その競争を有効に行う人々の集まりである、と見ている。特に新興国の場合はそういってよい。つまり「若い」国である。そうだとすれば「若い国」に勢いがあるのは当然であろう。
ブラジルのような新興国にあっては、国家そのものがスポーツ的な競争集団のニュアンスを帯び、また、スポーツが国家的なニュアンスを帯びてくる。昨年の中国・北京オリンピックもそうであった。・・・後略・・・。

1964年同じ熱気が東京にあった。
東京でオリンピックを開催するために、いや、東京ではなく日本でオリンピックを開催するためにオールスターで招致活動に奔走したのだ。
日本だけではない。作家 高杉 良氏の「祖国へ、熱き心を」(和田 勇の伝記小説)の主人公日系米国人和田 勇が私費で38日間かけて中南米を駆け巡ったエピソードなど知られざる活動が日本にアジアにオリンピックを引っ張ってきたのだ。
今回の東京オリンピック招致活動にはどうもその熱気が無かった。日本での2回目のオリンピックではなく、東京での2回目のオリンピックになってしまっていた。
地方での盛り上がりなどは全く感じなかった。
それこそ否定的な意見も多く聞いた。
内心、私はテレビで投票が中継され、日本が落選したのを確認したときほっとした。1964年の東京オリンピックのような熱気をもう一度日本全体で起こしてからオリンピックを開きたいと思ったのだ。そうでなければ子供たちにあの感動は伝わらないだろう。

金メダル 16 /銀メダル  5 /銅メダル 8 入賞36という輝かしい記録以上にバレーボールの東洋の魔女達と大松博文監督、体操の小野喬 ・遠藤 幸雄・鶴見 修治・山下治広・早田卓次・三栗 崇(団体金メダル)ボクシングの櫻井孝雄、重量挙げの三宅義信、柔道の中谷雄英、岡野 功、猪熊 功、ヘーシンクに敗れはしたが、感動を与えた神永昭夫、マラソンの円谷幸吉、レスリングの吉田義勝、上武洋次郎、渡辺長武、花原 勉、市口政光など数え上げたらきりがないほどの感動があった。日の丸の小旗をテレビの前で振っていた大人たちの光景が今でも蘇る。
そういえば、東京オリンピックの公式パンフレットに記録を書き込んで、今でも大切にとってある。

日本でのオリンピックをもう一度見てみたい。


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August 23, 2009

世界陸上ベルリン大会 男子マラソン

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第12回世界陸上ベルリン大会男子マラソンは、ケニアのアベル・キルイが、大会新記録となる2時間6分54秒で優勝した。
2位には2時間7分48秒でエマヌエル・ムタイが入り、ケニア勢力が1・2フィニッシュを果たした。3位には2時間8分35秒でエチオピアのツェガエ・ケベデが入っている。
アフリカ勢の強さが目立った大会であった。

 日本勢は佐藤敦之が2時間12分5秒で6位入賞を果たし、清水将也は11位、入船敏は14位、前田和浩は39位、藤原新は61位に終わった。日本は上位3人で争う団体戦で3位に入り、銅メダルを獲得した。

佐藤選手がゴールした直後、ガッツポーズとともに激しい雄たけびを上げた。何と言っていたのか不明だが、相当エキサイトしていた。「やったー」とも聞こえたし、「ちきしょー」とも聞こえた。その後日の丸を広げて観客に手を振った。私は大変奇異に見えた。
普通優勝するかメダルを獲得したときに行なうアクションであると思っていたからである。
6位入賞でそこまでするかという感があった。マラソンは日本のお家芸である。6位では物足りないと皆思っている。それなのに日の丸をまとって胸を張っていたので奇異に感じたのだ。
しかし、昨年1年間の佐藤選手の経験を翌日の新聞で知ったとき奇異に見えた行動が理解できた。

 昨年の北京五輪のマラソン。佐藤選手は完走した76選手で最下位に終わったのは記憶に新しい。2時間7分13秒の日本男子歴代4位の記録を持つ男が、2時間41分8秒。初めての五輪は屈辱で終わったのだ。
 そして、追い打ちをかけたのが、帰国後に読んだ新聞記事だという。見逃せないフレーズがそこにあった。 《佐藤、赤っ恥》  「ぼろくそに書かれた」のだ。

これはきつい。私も剣道の試合で何度も経験した。特に団体戦の代表戦など自分にチームの全てがかかる。それも決勝戦ならなおさらである。その試合に負けたときは言葉では出せないほど打ちひしがれる。
そんな時、いつも周りが気遣ってくれたため立ち直りが早かったのだが、・・・・。

《佐藤、赤っ恥》
こんな言葉を浴びせられたらもうマラソンをやめたくなるだろう。それから僅か1年。見事に立ち直って堂々の入賞である。
雪辱を果たしたいま、胸を張って日の丸を掲げたのだ。
そう思うとゴールした時の雄たけびも理解できるし、日の丸を身にまとって手を振ったのも理解できる。
みんなそれぞれにドラマがある。自分だけのドラマがあるのだ。
テレビや新聞、雑誌に映し出される姿だけでは分らないことがたくさんある。

それにしても佐藤選手の復活には心のそこから拍手を贈りたい。


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August 05, 2009

縁日について考える

先週会社の前で「芝まつり」が開催されて賑わった。
商店街が主催して年に1回開催されるのだ。事務所ばかりになってしまった会社の界隈は普段、夜になると閑散として人通りもまばらである。
しかし、お祭りの2日間は子供から大人までそこそこ人が集まってくる。昔の縁日のように模擬店や、金魚つり、輪投げなどが商店街の人たちによって出された。
だが、50年前の縁日の賑わいに比べてみる陰もない、寂しいものであった。都心に人が住めなくなって30年近く経つ。今は人が集まったといっても昔に比べ「そこそこ」が精一杯である。

芝まつりが開催されたのは、芝不動尊前の広場である。
50年前ちょうど東京タワーが立ち上がった頃、その場所は「子供の遊び場」と呼ばれ紙芝居や大道芸人、飴売りなどが子供たちを喜ばせていた。毎月2の付く日、2日、12日、22日はお不動様の縁日で露店が道に溢れていた。商店街の端から端までずっと露店で埋まり大勢の人が集まってきた。
小学生であった私はお小遣いに50円を貰い友達と待ち合わせて縁日に出かけたことを思い出す。ゲームなどというものが全くなかった頃である。縁日はとても楽しみだった。特に射的が好きだった。倒れそうでなかなか倒れない的に向かって必死にコルク玉を撃った。

しかし、剣道の稽古日(月、水、金)と縁日が重なった日はブルーである。
18時から20時まで稽古に出かけ、戻ってから12円(子供料金)を握りしめて銭湯に行く。家に戻って食事をすると21時を軽く過ぎてしまう。もう縁日の露店が店じまいを始める時間である。剣道が恨めしく思ったことであった。
1度稽古をサボって縁日に出かけたことがあるが、すぐに親父に見つかり連れ戻されて稽古に出されたこともあった。

縁日の露店商でレントゲンのように見える筒というものが出ていたことがある。小さな筒状のもので手の指に当てて覗くと指の骨が透けて見えるというのだ。驚いて露店のおじさんが持っている筒に自分の指当てて覗くと確かに細い骨のようなものが黒く見える。これが自分の指の骨なんだと本当に思ったものである。
高いお金を出して買っていった者もいる。実は私も欲しかったが、お金がなく買えなかったのだ。後になって分ったのだが、筒の中に骨の形にした小さな鳥の羽が入っていて、覗くと黒く骨のように見えるようにしてあったのだ。今考えるとレントゲンのように見えるはずがないと分るが、当時は大変不思議に思えた。

また、3つのコップに小さな玉を1つ入れ、どのコップに玉が入っているかを当てさせる手品のような露店もあった。僅かなお金を払って参加し、当たると豪華な賞品をもらえるのだが、これもほとんどの人が外れる。しかし、稀に玉の入ったコップを当てて豪華な賞品を貰う人がいて羨ましがられる。実はサクラであったというのが分るのは数年してからであったが・・・。

縁日は楽しかった。大人も子供も大勢集まりものを食べながら歩いてもこの日だけは叱られなかった。私にとって特別な日であり、たくさんの思い出が詰まった日であった。

今も2の付く日はお不動様の縁日であることに変わりが無い。しかし、露店は2つか3つしか出ていない。縁日にお参りする人がいなくなったので、露店も出なくなったのだ。信心が薄くなり、縁日そのものが忘れられていくような気がする。
お祭りと縁日は違うものであるが、最近はお祭りばかりが目立つようになってきた。
そもそも縁日とは神仏の降誕・成仏など、その寺や神社に祭ってある神仏と何らかの縁がある日のことである。この日にお参りすると普段以上の御利益・御加護が得られるとされている。
大勢の参拝客を目当てに露天商が集まり、市がたつようになった。神仏の祭りがあるから露天市がたつものであり、本来露天市そのものが縁日のことを指すのではないのだ。

しかし、私にとって芝不動尊の縁日は露店市そのものである。




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July 19, 2009

「子守唄」について考える

子守唄を聞かなくなって久しい。
小さな子供のいる家庭では子守唄は生活の一部であった。昼寝をさせるとき、夜寝かしつけるとき、必ずといっていいほど子守唄は必須アイテムであった。そして、お母さんたちは自分の得意な子守唄を1つや2つは持っていた。
私の両親、祖父母は島根県出身のため、中国地方の子守唄が多かった。
1.ねんねこ しゃっしゃりませ
寝た子の かわいさ
起きて 泣く子の
ねんころろ つらにくさ
ねんころろん ねんころろん

2.ねんねこ しゃっしゃりませ
きょうは 二十五日さ
あすは この子の
ねんころろ 宮詣り
ねんころろん ねんころろん

3.宮へ 詣った時
なんと言うて 拝むさ
一生 この子の
ねんころろん まめなように
ねんころろん ねんころろん

今はもうほとんど聴くことのない子守唄である。
また、妻は熊本出身のため、子供たちには熊本県南部の「五木の子守唄」などをよく聞かせていた。

(一)           (四)
 おどま盆ぎり盆ぎり     蝉じゃござんせん
 盆から先ゃおらんと     妹でござる
 盆が早よ来りゃ 早よ戻る  妹泣くなよ 気にかかる
 (二)           (五)
 おどまかんじんかんじん   おどが打っ死んだら
 あん人たちゃ良か衆     道端(みちばちゃ)いけろ
 良か衆良か帯 良か着物   通る人ごち 花あぎゅう
 (三)           (六)
 おどが打っ死んだちゅうて  花は何の花
 誰が泣てくりゅきゃ     つんつん椿
 裏の松山 蝉が鳴く     水は天から 貰い水

子守唄はどれも哀愁のある暗いものが多い。1つ1つの子守唄にはいろいろな解釈があり一定ではないが、やはり貧しい庶民の中から生まれた民謡や童謡などと同じ大衆歌の一つである。

そんな子守唄を久しぶりに聞いた。それもカナダを天皇陛下とご訪問中の皇后さまからである。テレビから流れる皇后さまの子守唄にびっくりしてしまった。そして世界一素晴らしい子守唄を聞いたように感じた。
両陛下は、病気と闘う子供たちが入院している小児病院をご訪問し、子供たちに「私が子育て中に良く歌った歌がありますので、披露します」と英語で説明した上で、子守唄「ゆりかごのうた」を聞かせて子供たちを励まし、今夜はゆっくりお休み下さいと話しかけられた。

1、ゆりかごのうたを カナリヤが歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

2、ゆりかごの上に 枇杷(びわ)の実が揺れるよ(ゆれるよ)
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

3、ゆりかごの綱(つな)を 木ねずみが揺するよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

4、ゆりかごの夢に 黄色い月がかかるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

皇后さまの優しい歌声を聴いて改めて日本の子守唄の素晴らしさを実感した。
どうぞ若いお母さんたち子守唄を子供たちにたくさん聞かせてあげてください。


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June 30, 2009

「食品」について考える

コンビニの覇者セブンイレブンが公正取引委員会から、独禁法違反(優越的地位の乱用)に当たるとし、違反行為の排除措置命令を出された。
セブン側は消費期限が迫ったおにぎりや弁当などを加盟店が値引きする「見切り販売」を制限し、しかも、期限切れで廃棄した商品の原価相当額全額が加盟店の負担になっていた。
この排除措置命令は値引き販売で加盟店が損失を少なくする機会を奪う行為であるという判断によるものだ。

そういえば私の次女がしばらくコンビニでアルバイトをしていたことがある。夜の10時頃に帰るのだが、いつも袋いっぱいの食品を持ち帰っていた。
聞いてみると、消費期限の迫った破棄する商品を貰ってきたと言うのだ。まだまだ充分食べられる。これを捨てるのかとあきれたことを思い出した。

 セブンの加盟店の負担はどれほどなのか。公取委が無作為に選んだ約1100店について集計したところ、2007年3月から08年2月の1年間で廃棄した商品の原価相当額は平均約530万円だったという。
セブンは全国に約12,000店舗ある。単純に計算して1年間で636億円分の食品が破棄されている計算になる。

コンビニはその他にも、概算でローソン約9,500店舗、ファミマ7,400店舗、サークルK6,100店舗、ミニスト2,000店舗、デイリーヤマザキ1,600店舗、am/pm1,100店舗、その他5,300店舗もあるのだ。全部で約45,000店舗にもなる。そのコンビニで毎日、毎日食品が捨てられる。セブンも含め平均で年間300万円としても45,000店舗で1,350億円もの食品が破棄されている。
1日3億7千万円近くもの食品だ。こんな無駄があるか。利益を上げれば何をしてもいいと言うのか? 日本の食糧自給率は40%程度でしかない。ほとんどを輸入に頼っている。金を出して輸入をし、大量のCO2を排出して運んでくる。そして膨大な量の食品を破棄する。こんな国がどこにある。

私は幼い頃から食べ物にはうるさく躾けられたせいか、食品を捨てるという行為がどうも納得できない。
今はほとんど毎日弁当を作って持ってきているため、コンビニで買うことは稀であるが、こんなに食品を無駄にする業界に金を落としたくないと改めて思った。

エコだ、環境だなどと声高に言っているが足元をもっと見つめなおしたほうがいい。
これは企業だけではない。私たち個人ももっと食品エコを考えるべきだ。週に1度でも弁当の日をつくって持って来たらどうか。
それだけでも年間数百億円の食品が捨てられなくて済む。

消費者ニーズの名の下にコンビニをはじめ小売業界は便利さを競い合ってきた。いや消費者ニーズが先にあったのではない。企業が消費者ニーズを先に用意したのだ。それに乗ってしまった消費者が麻薬のように便利さを追求し始めた。
私たちはそろそろ正気に戻るべきだ。自国の食料自給率に目を向けるべきだ。
企業も品切れを売り物にするくらいの勇気を持てないものか。


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May 30, 2009

お金について考える

東京都板橋区で資産家夫婦が殺害されたというニュースが、ここ数日新聞、テレビで報道されている。74歳の夫と69歳の妻が殺害され、放火されたという。大変痛ましく悲しい事件であるが、報道により夫婦の日常生活が明るみに出るにしたがって、悲しいのは殺害されたことばかりでなく、この夫婦の生き方自体であると感じられるようになった。

江戸時代からの続く大地主で現在も広大な所有地を持ち、賃貸収入だけで生活していたという。所得税の申告税額が1000万円を超えた人が公示される「長者番付」(高額納税者公示制度、廃止)には平成に入ってから8回も登場したそうである。
私たちにとってうらやましい限りであるが、どうもお金が手段という考えではなく、目的になってしまっていたふしがある。
そもそもお金は何かをするための手段であって、そのお金を使って何をするかがその人の価値を決めるのだと私は思っている。

この夫婦は人付き合いがほとんどなく、夜に飲食のため外出する以外は、家に引きこもって電話にも出ないという。銀行嫌いでも有名で、決して信用をしなかった。自宅に多額の現金や貴金属を保管し、赤外線センサーを設置して用心していたという。
街の飲食店では「家に千両箱がある」、「妻に1000万円の毛皮を買ってやった」「押入れの奥に札束を入れておいたらカビが生えた」「妻が3000万円の札束につまずき足をくじいた」などとはなし、周囲を驚かせていた。また、3000円の食事でも10000円でお釣りをもらわず羽振りがいいところをみせていたという。
寂しかったのであろう。周囲の気を惹きたかったのかも知れない。いずれにしても悲しいことこの上も無い。

これだけお金があればもっと心豊かな生活を送れたはずであり、使い方次第では、人から慕われることがあっても恨まれることは決してなかったはずである。
お金を手段として使い、自分たちも周囲も心豊かにするという考えが浮かばなかったのだろうか? 目的となってしまったお金が放火で焼けただれ、散乱していたという記事は本当に空しい。

この事件の犯人を私は許すことは出来ない。また、亡くなられたご夫婦のご冥福を心からお祈りするが、生き方については疑問を投げかけざるを得ない。


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May 17, 2009

「紙芝居」について考える

「紙芝居」懐かしい言葉である。
昭和30年代私が小学生の頃、町の公園にカチ、カチという拍子木の音が響くと遊んでいた子供達が集まってくる。慌てて家に戻り10円を握り締めて戻ってくる者もいる。
そう、紙芝居の始まりである。自転車に乗り毎日そのおじさんは、午後の3時近くにやってきた。雨の日は来ない。テレビもまだあまり普及していない頃である。私達は大変楽しみにしていた。私は梅せんべいを買って始まるのを静かに待つ。おじさんの前では騒ぐ者はいなかった。
学校の先生も怖かったが、紙芝居のおじさんも怖かった。おじさんに叱られるという事は、紙芝居を見られないことを意味する。騒ぐ子供やけんかする子供をうるさいからあっちへ行けと怒鳴りつける。そうすると皆から睨まれその場から立ち去らなければならない。そんなことにならないように、いつも皆静かに開演を待っていた。だいたい2作を演じていたと記憶している。もちろん「黄金バット」は大人気であった。
紙芝居は、絵本の朗読などとは根本的に違う。あくまでも芝居である。おじさんの紙をめくりながらの一人芝居である。登場人物によって声色を変え、小さな太鼓や笛など小道具を使って音響を出し、私達を引き込んでいく。紙芝居が終わると家に帰る時間だ。物語の余韻と明日の展開を予想しながら家へ向かうのは楽しかった。

そんな紙芝居を見なくなって久しい。しかし、年に1000万円以上稼ぐ紙芝居師が大阪にいるというニュースを新聞で読んだ。紙芝居歴40年の通称「ヤッサン」こと安野侑志さんだ。まだまだ紙芝居は死んでいなかった。このヤッサンと組み1000人の紙芝居師を養成して全国で紙芝居を事業化しようという企業が現れ、先日オーデションを開催したという。予想した応募者数を大きく上回り、2回目のオーデションも予定しているという。

テレビ、パソコン、家庭用ゲーム機、DVDなど子供達の娯楽は大きく変わった。その中であえてアナログの「紙芝居」を事業化しようという。面白い試みだと感心した。
紙芝居は今の子供達には新鮮に映るだろう。きっと成功するのではないかと思う。ただ、紙芝居はあくまで芝居だ。演じる人によるところが大きい。それだけの人を養成できるかが「ヤッサン」の腕の見せ所だろう。大いに期待したいと思う。そして、また「紙芝居」を梅せんべいをかじりながら見てみたいものだ。


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April 22, 2009

定年退職について考える

以前勤めていた企業から社内報が毎月送られてくる。10年以上在籍した社員は社友ということで社友会の会員になる資格があるのだ。いつも楽しみに以前の上司、先輩、同僚、後輩の動向を読ませていただいている。今月号は定年を迎えた人たちの一言が特集されていた。ほとんどがお世話になった先輩方である。私も近い年なので興味深くコメントを読ませていただいた。
多くの人たちが「感謝」を述べている。同僚に、上司に、妻に、親にと対象は違うが皆、定年を「感謝」で迎えられたのは素晴らしいことだと感じた。

定年と言ってもまだ60歳、人生80年の時代に60歳で定年は若すぎる。定年後は趣味やボランティア、または晴耕雨読でのんびりいきたいと言う人が半数以上だが、今までの経験を活かして社会に是非役立てていただきたいと思う。

先日、定年のない会社がテレビで取り上げられ、話題になった。高齢者の方々が生き生きとして働いている。その会社には、勤続50年の賞状が額に入れられて飾ってある。社員の平均年齢が上がるにしたがって会社の業績も上がっていくという。60歳以上の人たちに半分辞められたら工場は稼動しなくなる。30代、40代の人たちが半分辞めても痛くも痒くも無いと言い切る社長がいる。物作りの現場だからという人もいるが、そうではない。どんな現場でもいくつになっても頼られる人はいる。そういう人たちが定年という二文字で去っていくのは、大変な損出だと感じる。

海外の新聞にクリーニング店で21年間無遅刻、無欠勤で働いている人のことが話題として載ったという。若いときから頑張って働いているのだと思っていたら、実は話題になったのはこの人がクリーニング店に就職した時の年齢であった。何と就職したのが81歳というのでびっくりした。ということは現在102歳ということだ。雇う方も雇う方であるが、81歳で就職する方も就職する方だ。
限界を自分の中に作らない。そうするだけで、無限の可能性が生まれるのだ。定年で会社を去る人たちに、お疲れ様という言葉と、まだまだこれからという激励を贈りたい。


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April 11, 2009

隅田川の桜

先日、桜が満開だというので押上の帰り道に隅田川の桜を見に行った。
両岸の桜並木が壮快である。川岸に座り、途中で仕入れた焼きトンと缶ビールでお花見としゃれ込んだ。

この季節桜の名所はどこも人の波である。飲めや歌えの大騒ぎである。徹夜で場所取りをする酔狂者まで出る始末だ。それがどうだろう。花が咲く前はただの並木である。誰も注目などしない。せいぜい「桜が咲く頃には素晴らしい景色になるのでしょうね」と言われるくらいである。また、賑やかだっただけに花が散った後は人影もなく寂しさもひとしおである。

花が人を呼ぶのか? 人が集まるから花が咲き競うのか? 桜には不思議な力がある。
しかし、いくら桜に力があるといっても花が咲かなければ人は集まらない。花を咲かす。何がなんでも花を咲かす。花の咲かない木の下には誰も集まらない。

母校の名の由来と同じである。
「桃李不言下自成蹊」(桃李ものいはざれども、下おのづから蹊を成す)
「桃や李(すもも)は、口に出してものを言うわけではないが、美しい花やおいしい実があるから自然と人がやって来て、そこに小道(蹊)ができる。つまり、桃や李は、人格のある人のたとえで、そういう徳のある人には、その徳を慕って人々が集まってくる。」

「花のある桜」や「桃李」のように黙っていても人が集まる。そういう指導者が政治の世界にも、経済の世界にも、教育の世界にもどれだけいるのか? 今の日本、甚だ心もとないと感じてしまう。


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April 07, 2009

ラジオ体操について考える

毎朝8時30分になると通勤途中にある自動車の部品工場からラジオ体操の音楽が流れてくる。作業着を着た男女数10人が会社の中庭でラジオ体操を始める。
以前はどこにでもあった朝の風景であるが、最近はこの工場以外ではほとんど目にすることがない。
面倒臭そうにダラダラと体操をする人、キビキビと体操をする人とさまざまであるが、見る側にとって何かほのぼのとするのは郷愁のせいだろうか?

ラジオ体操と言えば小学校の体操当番を思い出す。
校庭で朝礼の前に行なわれるラジオ体操の時、前に出て指導する当番である。
6年生になると全員順番で前に出てラジオ体操の指導をする。ここは注目される。私は体操が好きで床運動、鉄棒を得意としていた。朝のラジオ体操も好きであった。早く6年生になって前に出て得意のジャンプを披露したいと思っていた。

それが・・・。
今でもはっきり覚えている。小学校3年の11月3日、文化の日、街頭テレビのある公園の鉄棒で逆手車輪をして回っていたとき、手が滑りそのまま鉄棒から落ちて右の肘の関節を複雑骨折してしまった。
上級生が自転車で家まで送ってくれた。父親に連れられ病院へ行ったが、手術しても上手く肘が曲がるかどうか分からないといわれ、父はそれでは困ると思い、整骨院(当時は骨接ぎと言っていた)に連れて行き話を聞くと、形は保証できないが腕が曲がるようにはしてやると言われたという。
父の選択は骨接ぎであった。形よりも機能だという選択である。それは正しかったと思うが、そのときから腕が真直ぐ伸びなくなった。今でも右の肘は変形し、真直ぐ伸びず、冬になると痛み出すが、日常生活に困ることは全くない。

しかし、ラジオ体操で前に出て得意の体操を披露することは出来なかった。腕が真直ぐ伸びないので、後ろめたい気持ちでこじんまりと体操をするようになってしまったのだ。

今日もあの工場からラジオ体操の音楽が聞こえてくる。
この音楽を聴くと一度は体操当番で晴れ舞台を踏みたかったことを思い出す。


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March 30, 2009

「自死」について考える

「東京都トラック時報」という業界紙に、私の剣道部の先輩で「字源派姓名鑑定研究会」(http://suzukiryusei.com/)会主の鈴木隆生先生の記事が載っていた。
先生からは毎年12月に「年末所感」というお手紙をいただく。そのことが「東京都トラック時報」に書かれていた。
今年は自死と殺戮の横行がキ−ワードだという。イスラエルのガザでは昨年末から殺戮が繰り返され、死者は1300人を超えている。
また、警視庁統計資料によると昨年の日本国内の自殺者は10年連続3万人を超えたという。自殺未遂はそれの10倍はあるのではないかと言われている。毎日800人以上が自殺を試みている計算になるのだ。健康問題と経済問題で4分の3を占めるという。
鈴木隆生先生は、今年はまだ増えるというから驚きである。確かに経済状況は今年も厳しさを増している。予想が外れることを祈るばかりであるが、・・・。

霊界については多くの書籍が出ている。私も何冊か読んだことがある。その多くは臨死体験をした人が書いたものであるが、死後のことは誰にもわからない。それだからこそ興味がわくのだ。
しかし、ほとんどの著者が自殺をした人は成仏できないと書いている。詳しくはここでは語らないが、要するに生を受けた使命を全うしないまま自ら命を絶ったというところを強調しているものが多い。
私は死後のことはわからない。しかし、現在ここに生を受けているという事実は偶然ではなく、必然なのだと信じている。
地球が出来てから、いや宇宙が出来てから何十億年と進化を続け、今ここに生を受けている。これは偶然では出来ない。気という意思を持って進化し続けて来たと信じている。
進化についてはまた書く時があると思うので、そちらで詳しく書きたいと思う。

「自死」については、いろいろな意見があるだろうが、私は100%反対である。また、「死ね」とか「自殺しろ」などと言う人を許せない。このことは拙著「心の中へ…冒険の旅」にも詳しく書いている。(http://www.shinryokusha.co.jp/smc/pub/bouken.html)
人間必ず死ぬものである。自分から命を絶たなくても必ずお迎えが来る。その時まで耐えるということも、使命の一つだと信じている。


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March 21, 2009

ブルートレイン「はやぶさ」の思い出

はやぶさ

JRのダイヤ改正に伴い寝台特急「はやぶさ」(ブルートレイン)が3月14日の運行を最後に廃止された。「はやぶさ」の最後の姿を見ようと熊本駅のホームには約1000人が詰めかけたという。これで九州と関東を結ぶ寝台列車がなくなってしまった。

熊本駅はそれほど大きな駅ではない。そこに1000人というのは、すし詰め状態であったろう。
20年以上前、私も熊本から東京へ「はやぶさ」に乗って家族で帰ってきた。熊本空港から羽田まで飛行機という選択肢、熊本から博多まで鹿児島本線か高速バスで行き、新幹線に乗り換えて東京までという選択肢、そして熊本からブルートレインで東京までという選択肢の中で「はやぶさ」を選んだ。
時間的には飛行機、新幹線、そしてブルートレインであったが、経済的にはその逆であった。ただその時は経済的な理由だけでなく、ひたすらブルートレインに憧れていた。

昭和30年代前半、私が幼い頃、両親の故郷である島根県益田市へ夜行列車を乗り継いで行った。10数時間の長旅で、直角になっている4人掛けボックスの固い椅子に両親がひざを曲げて横になり、私と弟は座席の下の床に新聞紙をひいて空気枕を膨らませ、その上に頭を乗せて寝た。
そのときから、夜行寝台に乗ってゆっくり手足を伸ばして寝たいものだと思っていた。

「はやぶさ」は快適であった。家族4人で旅行を楽しみ、駅弁を楽しみ、会話も弾んだ記憶がある。
その後、熊本へはしばらく飛行機での行き来が多くなったが、2時間弱と早いだけで家族での旅行や会話を楽しむ時間がなくなった。
3女が生まれ、飛行機の費用も大きな負担になってきた12年前、あの時のブルートレインを思い出し、ワゴン車で東京、熊本間を往復することを思いついた。
それからは、毎年お盆に車で熊本まで往復することが我が家の不文律になった。原型は「はやぶさ」である。夜10時ごろに東京を出て、翌日の夕方に熊本へ着く。約18時間家族だけの時間を作り、旅を楽しみ、食事を楽しむ。

毎日、時間に追われる生活だが、このときだけは時間をたっぷり使って楽しむ。
あの時、ブルートレイン「はやぶさ」を選択しなかったら、車での往復は無かったであろう。役目を終えた「はやぶさ」に感謝である。


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March 03, 2009

車内のマナーについて考える2

以前のブログで、新幹線の車内のマナーについて書いたが、今日は地下鉄で驚きの光景に出くわした。
芝公園の駅から地下鉄に乗り込み椅子に座って前を見ると年の頃は60歳過ぎであろうか、身なりのきちんとした紳士風の男性が私から見て左端に座っていた。混みあってはいなかったが、それでも座席には8割くらいの人が座っていたのだ。
その男性は下に置いていた大きな黒いかばんを膝の上に置き直しおもむろに何かを取り出した。
手帳か本でも取り出すのだろうと思っていると、小さな包みから耳かきを取り出し、耳垢を掻きだし始めた。膝においてある黒いかばんにぼろぼろと耳垢が落ちていく。黒いかばんの上なので目立つのだ。一瞬この人は正気なのだろうかと疑った。
右の耳の後は何食わぬ顔で左の耳も掻きはじめた。かばんの上は耳垢だらけだ。さすがに横の人は席を立って隣の車両に移っていった。
それでもやめる気配がない。この人は呆けているんだろうか? その後耳かきを丁寧に拭いて片付けた。そして、かばんの上に溜まった耳垢をティッシュで拭き取るのかと思いきや片手で前に撒き散らしたのには開いた口が塞がらなかった。そして何事もなかったかのように次の駅で降りてしまった。

若い女性が車内で化粧をする。学生が携帯電話で話し始める。優先席に若者が陣取り、席を譲らないなど車内での若者の悪行が取りざたされるが、とんでもない。今日のような大人がいる限り若者に意見など言えない。
いつからこんな情けない大人が増えてきてしまったのだろう。

公共の場ですること、してはいけないことなどは幼くして学ぶことだ。60歳にもなってこんな簡単なことが何故出来ないのか? 

今、心ある人たちと親が読み聞かせる「修身」の書籍を企画している。幼いときから身を修めるという教育がなされないとこの国は本当にダメになるだろうという思いからだ。


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February 11, 2009

神田明神


今年のお正月に初めて神田明神へお参りに行った。
いつもは芝の増上寺と芝神明そして地元の鮫洲神社へお参りするのが恒例であったが、今年はそれに加えて神田明神へ足を運んだ。
神田明神は言わずと知れた商売繁盛の神社である。
昨年からの大不況を乗り切ろうとの願いからである。やはり神頼みは欠かせない。

年明けから2週間経っていたが、神田明神は相変わらず混雑していた。神頼みの人たちが多いのだ。神社やお寺にお参りするとなぜか心が落ち着く。打算だけでなく素直に手を合わせてお願いをする。
いや待てよ、「神仏は頼むにあらず、敬うのみ」という宮本武蔵の言葉が頭を過る。生死を賭けた戦いの前には自分の力を信ずるのみであり、神仏に頼むこと自体心の弱さを露呈してしまう。そうだ頼むのではなく、見守ってもらう。それでなくては他力本願になってしまう。再度手を合わせ直して自分の力で乗り切ることを誓った。

すると福々しく笑顔の大黒様の姿が輝いて見えた。
大黒様

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February 08, 2009

「Yes we can! 」について考える

オバマキャップ
アメリカ在住の友人から小さな荷物が送られてきた。
あけてみると帽子(キャップ)が一つ入っていた。オバマ氏の大統領記念に作られた帽子である。突然のことで首を傾げたが、一枚のメモが付いていたので納得した。
そのメモには、Yes we can! Yes we can! がんばりましょう。と書いてあった。
そうかアメリカにいる彼女も厳しい生活を送っている。私の窮状も知っているので、励ましのために送ってくれたのだ。
日本人にいま大切なのは、アメリカと同じように「私たちはこの不況を乗り切れる」というYes we can! なのだ。
愚痴ばかり言っていてもしょうがない。自分の気も滅入るが、他人にも嫌な思いをさせる。
どんなときにも気の持ちよう一つである。

「われを苦しめしもわがが心、われを救うのもまたわが心。これあるが為にわれ悩めど、これあるが故にわれひとり尊し」(心力歌より)

タイミングよく送られてきたYes we can! に感謝である。


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January 31, 2009

「洞山無寒暑(どうざんむかんしょ)」について考える

前回のブログで「立行寺」の日の出前の寒さを書いたが、その後以前読んだ相田みつをの「いちずに一本道、いちずに一ツ事」を何の気なしに読み返した。
私は乱読をほとんどしない、熟読玩味(じゅくどくがんみ)派である。一冊の本を何度も読み直すことが多い。
それなのに改めて読み直してガツンとやられた。

相田みつをは在家のまま武井哲応老師に師事して仏教を学んでいた。その武井哲応老師から「洞山無寒暑」の話を聞いたと書籍の中で書いていた。以前読んだときは「うん うん」と納得をしたのだが、すぐに忘れてしまう。

昔、中国に洞山良价(とうざんりょうかい)という優れた禅僧がいた。(洞山良价についてはここでは解説を控える)そこへ修行僧が尋ねてきて質問をした。
「寒くて困った。暑くてやりきれない。何とかいい方法はありませんか?」すると洞山が答えた。「そんなに大変ならば暑さ寒さのないところに行けばいいではないか」修行僧は納得がいかず「暑さ寒さを超えたところというのは一体どういうところですか」と聞き返した。洞山は「寒時(かんじ)は闍梨(じゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱時(ねつじ)は闍梨を熱殺(ねつさつ)す」と答えたという。「闍梨」は自分自身、「殺」は自分をそのなかに没入するという意味です。
要するに寒いときは寒さと一体になって自分を忘れる。自分を忘れたときに寒さも忘れる。
寒中水泳や夏の甲子園大会などは見ているほうが寒く感じたり、暑く感じる。その中に没頭している本人は寒さや暑さを忘れている。
昔の人は「いちばん寒いところはコタツの中だ」と教えたという。

以上は「いちずに一本道、いちずに一ツ事」からの引用ですが、確かにあの時、写真家のK女史は手袋もはめず、もくもくとレンズを覗いていた。そばで佇んでいた私だけが寒がっていたように思う。

仏教も仕事も理入(りにゅう)ではなく、行入(ぎょうにゅう)ではないと身にはつかないとつくづく感じた。やはり熟読玩味の後は、実践躬行(じっせんきゅうこう)なのだ。


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January 27, 2009

朝陽のありがたさ

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1月16日は寒い朝であった。
朝6時まだ日は昇っていない。今日は港区白金にある「智光山立行寺」(通称大久保寺)でパンフレット制作のため、写真家と待ち合わせていた。
境内に足を踏み入れると本堂からご住職の読経の声が聞こえてくる。暗い墓地が何か騒がしいように感じる。読経を聞きに精霊が集まってきているように感じる。それにしても寒い。
日の出は、6時45分くらいである。日の出を待っての撮影のため、撮影の段取りを打ち合わせている間も手の先、足の先が凍えてくる。早く日が昇らないかと待ちわびるが、あと5分が長い。読経はまだ続いている。木魚と鐘の音が大きくなる。精霊たちも騒がしくなる。
夜明け前の墓地というのは以外に賑やかなのだ。陽が昇ると同時に精霊たちが戻っていくその準備なのだろうか? 外はまだ人通りがほとんどない。ようやく日の出の時間になる。
待ちどおしかった。しかし、朝陽はまだ見えない。周りに立っているマンションで陽がお寺の境内には差し込んでこないのだ。寒さが身に堪える。使い捨てカイロを持ってくればよかったと反省する。周りが明るくなってきたので、撮影を開始する。本堂の読経もいつしか聞こえなくなり、ご住職が本堂から出てくる。お寺の周りがざわついてくる。通勤や通学の人通りも多くなる。するとどうだろう境内は静まりかえってきた。墓地は明るくなると静かになるということを実感した。

西側に立っているマンションの最上階に陽が射してきた。だがまだ境内には陽が射してこない。すぐそこまで陽が近づいてきているのに・・・。早く陽を浴びたいと思う。西側のマンションを見ながらもう少しだ、ここへ陽が射すのは、と思う。
撮影は順調に進む。今日はいい天気である。それだからこそ早く、早くここまで陽を届けてくれと願う。
日の出から50分やっと墓地に陽が差し込んできた。暖かい。こんなに陽が暖かく感じたことはない。冬の陽は何にも増してありがたい。夏の陽は憎たらしいが、同じ陽の光でもこうも感じ方が違う。
今日の朝陽は本当にありがたかった。思わず手を合わせたくなったほどだ。

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「智光山立行寺」(通称大久保寺)
天下のご意見番「大久保彦左衛門」と「一心太助」のお墓があり、通称大久保寺と言われています。
住所は東京都港区白金2-2-6 港区の史跡にもなっていますので、機会があればお寄りください。ご住職も大変気さくな方でいろいろ説明もしていただけます。


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April 28, 2008

「鯉のぼり」について考える

鯉のぼり2
先日、当社の黒磯営業所へ出向いた際、あちこちの農家に立派な鯉のぼりがはためいていた。東京都心ではすっかり見かけなくなった光景なので、つい見とれてしまった。
以前は、4月に入ると男の子がいる家庭では、大なり小なり鯉のぼりを飾ったものだ。東京でもベランダからたくさんの手作りの鯉のぼりがはためいていたのを思い出す。
調べてみると、そもそも端午の節句というのは、奈良時代から行われている古い行事のようだが、 端午というのは、五月の初めの午(うま)の日という意味だ。それがいつのまにか五月五日に固定されたようである。 奈良・平安時代の端午の日は、宮廷で軒に菖蒲やよもぎを挿し、臣下の人々は菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉の薬玉を柱に下げたりしたという。
鎌倉時代には、武家の間から菖蒲と尚武をかけてこの日を大切にする気風が生れた。江戸時代に入ると、端午は幕府の重要な式日となり、大名や旗本は江戸城に出仕し将軍にお祝を述べたという。
江戸中期になると庶民の間から町民のアイデアで鯉のぼりが生れた。中国に古くから伝わる登竜門の伝説になぞらえ、竜門の滝を登り切ると鯉が竜になるように、我子も健康に育ち、将来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたものだ。最初は和紙に鯉の絵を書いて飾っていたが、大正時代に綿の鯉のぼりが生まれ、素材が合成繊維に変わったりしてきたが、鯉のぼりを飾る風習は現在に受継がれている。 鯉のぼり
五月晴れに鯉のぼりがはためく風情はいいものだ。そういえば当社のシーガル(グリーティングカードショップ)http://www.seagull.cc/でも4月から鯉のぼりの工作カードが人気である。まだまだ鯉のぼりへの郷愁は廃れていない。5月5日にはみんなで鯉のぼりを飾ろう。そして菖蒲湯に浸かって男の子だけでなく子供たちみんなの健康と将来の幸せを祈ろうではないか。毎日暗いニュースが多い中、カラフルな鯉のぼりが街にはためくだけで楽しくなるではないか。


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April 24, 2008

謎のミニコンサート

昨日、日本橋の某マンションで謎のミニコンサートが開かれた。
参加者は9名。
奏者は3名、Fluteは沼尾真生子さん Violinは天野千恵子さんと入交彩さん
今、売り出し中の若手演奏家である。
第一部は、
カノン(パッヘルベル)
ビリーブ(杉本竜一)
「アルルの女」第二組曲より(ビゼー)
一週間(ロシア民謡)
第二部は、
魅惑のワルツ(F.D.Marchetti)
花(喜納昌吉)
早春賦(中田章)
オペラ「椿姫」より「乾杯の歌」(ヴェルディ)
以上8曲の素晴らしい演奏を目の前で聞いた。年に数回K社長の事務所で開かれるRoom Concertである。会費5000円でワインとビールを飲みながら軽くつまみを食べ、演奏を聴くのは居酒屋で飲むのとは別世界である。とても5000円では出来ないプライベートコンサートであるが、K社長の粋な計らいで時々お声をかけていただく。

演奏の合間には放談会と銘打ち好きなことを皆で話す。それぞれ違う会社の27歳から60数歳まで年齢差はあるが、世間や会社のことを後輩に先輩が教える勉強会でもある。K社長の人柄でいろいろな人が集まってくる。楽しい会である。
会社の上司や同僚、後輩を肴に愚痴をこぼしながら飲む酒とは一味違う。前向きな酒である。そして後味のいい酒である。

人生は限られている。飲む酒の量も、機会も限られている。くだらない愚痴を肴に飲む酒は時間の浪費である。
K社長に感謝しながら、今日も楽しい酒を飲めたと満足した一日の締めくくりであった。


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April 16, 2008

「正義の味方」について考える

川内康範氏が4月6日亡くなった。
最近では森進一氏との「おふくろさん」騒動で有名であったが、私たちは何といっても川内康範氏原作の「月光仮面」である。大瀬康一氏演じる「月光仮面」が毎週テレビで活躍する。小学生であった私たちの最大のヒーローだった。
あのころの子供であれば今でも主題歌は諳んじることができる人が多い。

どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている
月光仮面のおじさんは 正義の味方よ いい人よ
疾風のように現れて 疾風のように去っていく
月光仮面は誰でしょう 月光仮面は誰でしょう

どこかで不幸に泣く人あれば 必ずともにやって来て
真心こもる愛の歌 しっかりしろよとなぐさめる
誰でも好きになれる人 夢を抱いた月の人
月光仮面は誰でしょう 月光仮面は誰でしょう

どこで生まれて育ってきたか 誰も知らない謎の人
電光石火の早業で 今日も走らすオートバイ
この世の悪に敢然と 戦い挑んで去っていく
月光仮面は誰でしょう 月光仮面は誰でしょう

歌詞にもあるように月光仮面は「正義の味方」である。
月光仮面は自分が正義だといったことは一度もない。常に「正義の味方」なのだ。正義を決めるのはみんなである。みんなで決めた正義を守るのが月光仮面であった。だからヒーローなのだ。

今の政治家はみんな自分が正義だと主張する。あちらもこちらも正義だらけだ。俺が正義そのものだと言わんばかりだ。正義は自分で決めるものではない。国民が決めるものだ。
川内康範氏が世に出した月光仮面は正義ではない。「正義の味方」でしかないのだ。今の政治家に月光仮面の歌詞を読ませたい。
社会保険庁を筆頭に腐敗した この世の悪に敢然と 戦い挑んで去っていく 「正義の味方」が政治家の中から現れることを期待したい。

先日酒を酌み交わした後輩の参議院議員N君頼むぞ「正義の味方」になってくれ。


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April 04, 2008

東京は桜の名所

駐車場桜陸運局桜
先週の日曜日桜が満開だというので、ふらっと出かけた。
どこへ桜を見に行こうかと考えてマンションを出ると、目の前の駐車場の桜が堂々と咲いている。出かけなくてもここに咲いているよと言わんばかりだ。
桜を眺めながら歩き出すと、隣の陸運局にも桜の枝が歩道まで伸びて目を楽しませてくれている。駅へ向かう途中の公園では何本もの桜が競うように満開である。高専の庭の桜も美しい。郵便局の隣にも小ぶりではあるが桜の木が花びらを散らしている。
何だ、どこへも行かなくてもここに美しい桜があるではないか。
上野の山の桜も素晴らしい。井の頭公園の桜も、目黒川の桜も人気があるが、人を見に行くようである。
ただただ通行人の目を楽しませてくれる一本の桜の木が逆に愛おしくなってきた。どの桜も精一杯咲いている。人を見に行くよりここでじっと桜に向き合っていればいいのだ。
そう考えたらわざわざ出かけるのが馬鹿らしくなってきた。
とうとう品川でラーメンを食べてそのまま元来た道を再び桜を眺めながら帰ることにした。

東京はどこにいても桜を楽しめる。東京は桜の名所だと気がついた。
鮫洲公園桜

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March 15, 2008

活版印刷について考える

絶滅したと思っていた活版印刷が再び脚光を浴びているという。当社(心力舎)は平成10年に有限会社三浦印刷所が設立した会社である。三浦印刷所は昭和24年に会社組織にしたが、その10年くらい前から個人営業で活版印刷を行なっていた。
「3丁目の夕日」ではないが、当時は地方から金のたまごといわれた中卒の労働力が東京に多く流れ込み、どの産業も活況を呈していた。活版印刷も全盛で、三浦印刷所も今では違法建築だが、木造2階建ての屋根裏を改造して3階を造り、そこに住み込みの職人さんたちを寝泊りさせていた。家族6人に住み込みさんを交えて大人数で朝食を食べ、小学校へ出かけたことを思いだす。

私が大学の頃にはオフセット印刷に押されてはいたが、まだ住み込みの職人もいて活版印刷は大手を振っていた。特に名刺やはがき、チラシなどは活版印刷が主流であった。私も午前中は活字で名刺を組み「てきん」と呼ばれる半手動式の印刷機で名刺を刷り、午後から学校へ出かけた。もちろん午前中も授業はあるが、それは「代返」(変わりに返事をしてもらう)と後でノートを借りることで凌いできた。午後からの授業は必ず出た。午前中ノートを頼んだ友人のほとんどは午後からマージャンや喫茶店に雪崩れ込んだため、午後から私がノートを取り彼らに貸したものだ。
授業が終わると部活があり、19時ごろに学校を出て、自宅に21時前に戻るという日々であった。だから学生時代に大学で遊んだという記憶がほとんどない。
活版印刷と授業と剣道の学生生活であった。

ある時「てきん」で印刷していた時のことである。ラジオの放送に気をとられて名刺の台紙を挟みこむタイミングを外してしまった。ちょうどスピードを上げていたところであった。しまったと思い手を抜いたのであるが、指の先を「てきん」に潰され爪を2本ダメにしてしまったことがある。
安全装置もついてはいたが、ちょっとしたことで止まるので効率が悪く、慣れてくるとスイッチを切ってしまう。そこで事故になるのだが、当時の職人は安全装置をつけながら印刷するのは素人だという意識が強く粋がってスイッチを切っていることが多かった。

その後活版印刷は電子化に押されほとんど姿を消した。当社も活字のほとんどを破棄してオフセットに切り替えたのだ。その時には二度と活版印刷が脚光を浴びるなどと思ってもみなかったが、今ではパソコンの文字に慣れている若い人達が、デザイン的に美しいということで活字に憧れているという。

複雑な気持ちである。しかし、活字はあくまでも興味の部類であって、工芸、趣味という分類であろう。産業としての活版印刷はすでに役目を終えて絶滅している。
昨日最後の運行を終えた夜行寝台「銀河」のようなものだ。最後だと思うと多くの人が集まり、チケットも30秒で売り切れたという。
人の興味というのは気まぐれである。活字も産業として絶滅したためにかえって今、人気なのかもしれない。


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February 23, 2008

「銭湯」について考える

数日前の新聞で「浴槽は贅沢品?」という記事に目がとまった。都営住宅で、住民が入居時に費用を自己負担して浴槽を設置しなければならない住宅が、12万1千戸あることが分かったというのだ。都営住宅の数は現在26万4千戸あるので半数弱は浴槽がついていないというのだ。かつて浴槽は贅沢品という考え方もあり、昭和50年代半ばまでに建てられた住宅には浴室はあるが浴槽は付いていなかった。それが今日まで継承されているというのだ。当時は浴槽を自分で設置して、退去する時には浴槽を撤去して明け渡すということが行なわれていた。
記事はその無駄を指摘し、今日の実情に会わないから是正するというものであった。
銭湯366d55818.JPG
確かに私の子どものころは銭湯に行くということが一般的であった。たくさんの銭湯があった。当然私の家にも風呂は無かった。歩いて3〜4分のところに3つの銭湯があり、定休日をそれぞれずらし利用者に不便をかけないようにしてあった。
銭湯は広くて気持ちが良かったが、怖いおじさんが必ずいた。浴槽に子ども達が連なって座りしゃべっていると邪魔だといって怒られたり、湯が熱いので水を入れると余計なことをするなと止められ、水鉄砲で遊んでいると他の人に引っかかるからと取り上げられたりした。
また、知り合いのおじさんがいると背中を流すのが暗黙のルールであり、それは風呂から上がった後にコーヒー牛乳を御馳走になる儀式でもあった。

親父と銭湯に行った帰りには、焼き鳥屋でモツの煮込みを食べさせてもらえるのが楽しみでもあった。友達と銭湯で待ち合わせて話しに興じたりもした。今では考えられないが、銭湯は社交場であり、教育の場でもあったのだ。
テレビでは、銭湯が舞台になった「時間ですよ」という番組が人気を博し、天地真理や岸本加代子などがアイドルになった。

大学に入った後、学内の合宿の時には同期が連れ立ってよく銭湯に行った。また、下宿している友人宅に泊まったときなども銭湯を利用した。
社会人になってもアパートに風呂が無かったので、会社の帰りに銭湯を利用した。

結婚をして福岡県の福間町に住んで、初めて自宅の風呂というものを経験したものだ。最初は嬉しかったが、だんだんあの広い銭湯が懐かしくなったのを覚えている。
その銭湯も今は無い。贅沢品といわれていた浴槽が今はどこの家にもある。そして、銭湯の役目は終わったといわんばかりに次々と姿を消していってしまった。
銭湯2
ところが、学生時代に利用した銭湯が吉祥寺に残っているのだ。あの頃と周りはすっかり変わったが、銭湯は昔のまま健在であった。今でも薪を焚いて湯を沸かしている。あれから35年経つ、その前から営業をしていたのだから、ゆうに50年は超えているだろう。この銭湯の前を通るたびに懐かしい学生時代が蘇ってくる。


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February 08, 2008

車内のマナーについて考える

昨日、当社の黒磯営業所へ出張で出かけた。月に1回か2回新幹線で那須塩原駅まで出かけるが、毎回車内のマナーについてはあきれ返る。

いつも朝が早いので車内で朝食をとる。昨日も7時28分東京発の新幹線の中で持参したお弁当を食べた。東京駅始発のため自由席で大宮まではゆったり座れる。食事が済んで書籍を読み始めたころ大宮駅に到着し、大勢の人が乗り込んできた。
私の隣にも中年のサラリーマンが座ったが、いきなり駅で買ったのであろう弁当を開き、食事を始めた。それは別に気にもならないが、このサラリーマンは大変下品な食べ方をする。くちゃくちゃ音を立てながら噛み始めたと思ったら、おかずをこぼしたりペットボトルのお茶をドンとテーブルに置いたりでとにかく品が無い。あたりのことなどお構いなしだ。
挙句の果てには、食べた弁当の容器やペットボトルを前の網にねじ込んで慌てて下車した。

次にこの席に座る人のことなど全く考えていない。成りだけは良くしているが、子どもより酷い。こんな中年が多くなっては社会教育など覚束ない。呆れ返ってしまった。

帰りの新幹線の中では携帯電話で大声で話す馬鹿者。混んでいるのにカバンで隣の席を占領するアホなど、全く馬鹿と阿呆の絡み合いである。
昨日は本当に情けなくなった。世界に誇る新幹線である。乗る人達も一流であってほしいものだ。


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January 05, 2008

2008年に思う。

東京の正月は穏やかな天気で落ち着いた3が日を過す事が出来た。
しかし、テレビや新聞からは地球温暖化による異常気象の特集映像や記事をこれでもかこれでもかと読者や視聴者に突きつけてくる。確かに温暖化による環境の変化は我々にとって脅威かもしれない。そして、温暖化を緩める努力はしなくてはならないが、止めることは出来ないであろう。人間がこの地球の主役でいる間は。

ただ46億年の地球の歴史を振り返ったとき、地球が火の玉になった時期や全球凍結の時期、また、巨大隕石の落下、火山の噴火、大地の移動など想像もできない大変化の道をたどってきた。だが、生命はこうして息づいている。そして我々がここにいる。大変化のたびに地球の主役が交代しただけである。人間が誕生して僅か200〜250万年しか経っていない。さらに主役となってからは数万年〜数千年のことである。まだまだ未熟な主役である。
交代するには少し早すぎる。主役後退を引き伸ばす方法は知恵を絞れば出てくるはずだ。

何事でもそうであるが、主役やトップになったときから衰退が始まる。慢心するからだ。脇役や2番手、3番手が手ぐすね引いてその地位を狙っているのに気がつかない。まだ、何千年かは人間が主役でいられるかもしれないが、必ず滅びる時が来る。その引き金になるのが、自然環境によるものか、自ら引き起こす人為的な愚かな行為か分からないが、それをしっかり自覚しておかないと、滅びるスピードが速くなる。

形ある地球が滅びる。みんなそれは分かっているのだ。だから宇宙開発を血眼で行なっている。そして、いずれは宇宙へ生存の道を求めて移住する。地球と同じような環境の星はまだいくつもあるはずだ。数千年後にはきっとそれを探し出し、移住が始まる。
実はこの地球そのものが移住候補の星であったのではないかと思う。その名残がピラミッドであったり、ナスカの地上絵であったり、インカ帝国の暦や天体観測技術だったりしたのではないだろうか。
きっとその後、地球よりも移住に適した場所を発見し、再移住していったのかもしれない、いや、実は我々に同化していったのかもしれない。

そんな荒唐無稽なことを考えて3日間を過ごし、4日の朝、会社へ出てみるといきなり円高、株価暴落が目に飛び込んできた。
大発会で600円以上のマイナスから始まった年があっただろうか?
いきなり地球規模から明日の経済に引き戻された。地球滅亡の前に今年の経済がどうなるかが問題だ。投機マネーといわれる怪物が株式市場から離れていき、いきなり正月あけに猛威を振るいはじめた。
昨年の8月からサブプライムローンに端を発した株価暴落、世界経済の衰退が今年も続くのかと思うと頭が痛い。
地球滅亡の前に会社が滅亡しないよう今日も朝から会社で週明けの準備だ。
2008年多難な幕開けである。


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December 31, 2007

2007年「年末」について考える。

今年も大晦日を迎えた。
1年間を振り返るといろいろなことがあった。今年は初めて韓国へ出張で訪問した。
電話で韓国にいる友人と仕事の話をしていて、これは行って話したほうが早いと思い立ち、2週間後には韓国を訪問していた。年末の忙しい時期であったが、思い立ったらすぐに行動するのが身上である。考えていたら決して行けない。行かれない言い訳はいくらでも言えるが、どうしたら行かれるかを考える。その前に予定をとって旅行代理店に航空券を手配してもらうのだ。そうすると行かざるを得ない。そこから行く算段をする。

来年も積極的に行動する。考えていては先に進めない。そんなことを考えながら大晦日の朝、ウォルト・ディズニーの最新作「ルイスと未来泥棒」を三女と見に行った。大晦日であれば空いているだろうとの予想どおり映画館はがらがらであった。
未来へ行ったルイスを、温かく迎えてくれたロビンソン一家の中心である発明家のコーネリアスのモットーは「前へ進み続けよう!」であった。
そして、ルイスが家族の前で大失敗をしたときに全員が失敗を責めずに大いに励ました。失敗があるから成功があると。前向きな失敗を誰も責めなかった。
これはウォルト・ディズニーのモットーそのままである。彼は言っている。「過去を振り返らず、前へ進み続けよう。私たちは好奇心にあふれている。好奇心こそ、新しい世界への道しるべだ。」

大学を出て、東急系の会社に入社したとき、当時の五島昇社長から言われたことを不意に思い出した。「この会社では向こう傷は問わない。その代わり背中を切られるようなことをするな。」剣道をしていた私には非常に心に沁みた言葉であった。前に出ての失敗は許す。ただし困難に直面して逃げるような真似をするなということだと受け止めた。

ウォルト・ディズニーも五島昇も国や業種は違っていても、言っていることは同じである。「前に進む」これだけだが、これが難しい。安定期に入るとついつい前進するエネルギーを失ってしまう。だから常に新しい事に挑戦するように心がけている。失敗しても向こう傷は勲章になるからだ。

「ルイスと未来泥棒」の結末は意外であった。これから見る方のために最後は言わないことにする。
大晦日に改めて前進することを決意させてくれた映画であった。
ハッピーニューイヤーの気持ちではなく、ハッピーニューデイの気持ちで毎日決意を新たにしていきたい。


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December 13, 2007

今年の漢字について考える

今年の一文字の漢字に「偽」が採用された。これは御存知のように偽装が多かったからである。特に老舗といわれる企業が芋づる式に摘発されたのだ。それもほとんどが内部告発である。そして、当初の記者会見では幹部の関与を否定していたが、会社ぐるみということがすぐにばれてしまう。口封じや知らぬ存ぜぬを押しとおしていた企業が一転平謝りになる。どこの企業もすぐにばれる言い訳を判で押したように言うのが不思議でならない。

内部告発ということは、必ず全てが明るみに出るということである。社員がまさか自分の会社の恥部を曝け出すなどと思ってもみなかったのであろう。何とかごまかせるだろうと高を括っていたのかもしれない。
今まで普通にやっていた偽装がある日突然槍玉に上がる。耐え難き悪質な偽装から許容範囲の偽装まで多様であるが、世間を欺くということには変わりが無い。
偽装自体も許されざる行為であるが、もっと耐えられないのは往生際の悪さである。潔さがない。恥の文化と言われた日本の終焉である。
権力や地位になぜそんなに固執するのであろうか? 事を起す時には覚悟を決めなければならない。覚悟もないまま事を行なう者が多くなりすぎた。

ここまで書いてきて5年半前の出来事を思い出した。このことは次回「覚悟」について考えると題して書くことにする。

それにしても今年の「偽」という漢字は恥ずべきである。来年は「豊」、「幸」、「喜」などという漢字が採用されるといいのだが・・・。


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