旅行記

June 03, 2006

初めての初島

初島1


ちょうど1ヶ月前連休期間中に、はじめて「相模湾の真珠」と呼ばれる初島に渡った。伊豆半島は毎年のように訪れるが、熱海や網代、伊東などからすぐそこに見える相模湾の中に浮ぶ小さな島がとても魅力的に思えて渡ってみたいと思っていた。いままで機会が無かったのが不思議なくらいである。

行きは伊東から定期船で渡ったが、30分足らずで着いた。そのはずである、10キロくらいの距離しかない。しかし、初島の桟橋に着くと何か南国の雰囲気がどっと押し寄せてくる。5月とはいえ連休中で夏のように賑わっていた。ちょうど「ところてん祭り」も開催されていて桟橋はごった返していた。ここの名物は何といっても新鮮な海の幸、お昼になると込むだろうと思い11時30分ごろにまずは腹ごしらいと言うことで、桟橋近くにある食堂を目指す。20件くらいあろうか、民宿を兼ねている食堂が連なっている。どこも店先に水槽を用意して活きのいい魚やえび、貝を見せている。
どこに入るかうろうろしている間にもどんどん店は込み合ってくる。えーいどこでも大差ないだろうということで、ちょうどイセエビが目に付いた店に飛び込む。
刺身と、オコゼのから揚げ、イセエビの活造りにあしたばとイカのてんぷらなどを注文し4人でたいらげる。景気づけにビールを数本飲んで島の散策に出かける。

周囲4キロ海抜50メートルという大変小さな島で、島民は約150人、しかし小さな島に似合わない巨大なホテルがあり、そこの従業員が島民を上回る200人弱という。この島には売り地や売り家、別荘、借家、アパートは無く、この島が気に入ったからと言っても住む方法は、島民の嫁になる。または、ホテルや民宿、食堂で住み込んで働くという方法しかないという。
まあ、熱海や伊東から定期船で30分なので、たまにホテルや民宿に泊まりに来るということで十分だ。
初島2

周囲が海に囲まれた島から眺める景色はとても気持ちがいい。不思議と時間がゆっくり流れる。途中ゴーカートに乗って遊んだりしながら、ぐるっと島を廻って桟橋に戻ったが、2時間もかからない。食事をして、休みながら島の景色をのんびり眺めても1日あれば十分である。島には病院や銀行、郵便局もない。タクシーや美容院、もちろんパチンコ店やコンビニ、飲み屋などもなく、島の夜はとても静かだという。
海上から見た熱海

帰りは熱海に向かった。素朴な島から僅か11キロ、海上から見る熱海は要塞のように聳えたっている。ここは夜な夜な不夜城のような賑わいが繰り返されている。たった11キロであるが、海という仕切りでこれほど違うのかと眼を見張った。が、・・・
初島の静かな夜もいいが、熱海の夜も捨てがたいなー。


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February 18, 2006

佐渡ヶ島へ5

尖閣湾

バスがホテル前に迎えに来て、国定公園である尖閣湾へ向かう。
昨日とは違い今日はよい天気である。
ここは昔の人気ドラマ「君の名は」のロケに使われた場所で、大変風光明媚なところである。切り立つ岩場と荒々しい日本海が絶妙な取り合わせとなって目の前に広がる。雪景色の中で見る尖閣湾の眺めは福井県の東尋坊(こちらの方が広大ではあるが)にも勝るとも劣らない。
「君の名は」のロケ地であったということで菊田一夫氏のあの有名な詩が刻んであった。

「忘却とは忘れ去ることなり 忘れ得ずして忘却を誓う心のかなしさよ」

当時は「忘却」という言葉が流行語になったほどだ。
佐渡金山


尖閣湾を後にして佐渡金山へ。
佐渡といえば金山である。坑道の中は、江戸時代の鉱石を掘る職人たちの様子など模型を使って再現してある。それにしても過酷な労働条件であったことがわかる。江戸から無宿者が送り込まれてきたが、5年ほどで命を落とす者がほとんどであったというのも頷ける。
徳川時代から昭和まで388年間で採掘した金は78トンという。
暗い坑道を抜けて出口に辿り着くと、単なる見学ではあるがそれでもほっとする。
流人として送り込まれた人たち(無実の人も相当いたようだ)の絶望感は相当なものであったと想像できる。これでは5年も体が持てばいいほうである。
佐渡お地蔵さん


最後に佐渡博物館を見学したが、庭の端で頭に雪をのせたお地蔵さんが両手をあわせて、にっこり笑っていたのがとても印象的であった。
佐渡ヶ島は本土との間を厳しい自然が阻んでいるが、この島は心の豊かなやさしい島だとお地蔵さんに教えられた。



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February 04, 2006

佐渡ヶ島へ4

曽我ひとみ

曽我ひとみさんが蓮池夫妻、地村夫妻と共に帰国した後、「母への思い」の手記を書き新聞に載ったのが、平成14年12月30日であった。
その記事を読み、翌年の1月中旬に励ましの手紙と数冊の書籍を贈った。
そして、曽我ひとみさんから返事が来たのが今日のように寒い2月の末近くであった。
手紙には次のように書いてあった。(原文引用)

寒くなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
私はおかげさまで元気にすごしております。引っ越しも済ませこちらでの生活もしだいに落ち着いてまいりました。
 このたびは温かい励ましをいただきましてありがとうございました。日本への帰国以来、つらい事、悲しい事もありましたが、うれしい事も沢山ありました。皆様からの心温まるご支援にどれだけ励まされたかわかりません。こうして毎日暮らすことが出来るのもあなた様のおかげと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。
 今後は日本での生活に慣れて、自立できるよう努力したいと思います。これからも見守っていただきたいと思います。
 時節柄くれぐれもお体を大切になさってください。
                  まずはお礼まで。
  平成15年2月25日
                              曽我ひとみ
追伸として以下の文章が添えられていた。
お手紙、本どうもありがとうございました。
これから本を読ませていただきます。
すばらしいお仕事をされていらっしゃると思います。
これからも良い本をたくさんかいて下さい。

最後にかわいらしい字で「ひとみ」と彫られた朱印が押してあったのが印象に残った。

そんなことを思い出しながら真野町を後にして、今日の宿である相川七浦温泉のホテル「吾妻」へ入った。
ここは夕日百選にも選ばれている宿だというが、あいにく今日は吹雪である。夕方からまた雪が降り出したのだ。
しかし、ここの露天風呂から見る冬の日本海は絶景であった。凍てつくような外の空気と雪、すこし熱めの湯に首だけ出して浸かり、あちらが北朝鮮の方角だと思うとぐっと睨み返さずにはいられない。体が火照ってきて湯から出ると外の冷気が気持ちいい。立ち上がって日本海と対峙する。1分もすると体の表面が凍てついてくる。再び湯に浸かりまた立ち上がる。これを何度か繰り返す。季節はずれのせいか露天風呂は貸しきり状態である。
いい温泉に浸からせてもらった。

佐渡の朝日

翌朝、朝日を見に再び露天風呂へ向う。昨日は雪のため夕日を楽しめなかったので、今日は朝日を拝むつもりだ。幸い今日は昨日とうって変わって天気がいい。東の空が白み始めたかと思うと山間からスーと一筋の赤い光が放たれた。日の出だ。久しぶりに朝日を拝む。
今日もいいことがありそうだ。楽しい一日になるぞ。朝日は本当にそんな気持ちにさせてくれる。佐渡ホテル前





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January 28, 2006

佐渡ヶ島へ3

トキ保護センター

曇り空で、時々小雪がちらつく佐渡の道をまず佐渡トキ保護センターへ向う。あたりは雪一面で長靴でないと歩けない。もちろんこんなことを予想してスノーブーツで来たので安心だが・・・。学名Nipponia Nipponの日本産トキは平成7年4月に最後の「ミドリ」が死亡して絶滅したが、現在は中国から贈られたトキが繁殖を繰り返している。現在80羽(成鳥58羽、ヒナ22羽)が飼育されている。
日本産のトキも、中国産のトキも変わりがないというが、やはり外国産のトキではさびしいなー。まあ、3代日本で生まれればそれは日本産と言ってもいいかもしれないけれど・・・。

バスは西三川ゴールドパークへ行き砂金採りの体験をさせてくれた。砂利を皿に取り揺すりながら砂利を洗い流すと、比重の重い砂金が最後に皿底に残るという寸法である。採れたものはもって帰っていいというので、夢中になって砂金採りに挑戦する。でもこれは重労働だ。すぐに腰が痛くなる。砂金採りの人は大変な苦労をして砂金を採っていたのだと改めて思い知らされる。
佐渡歴史伝説館


次に佐渡歴史伝説館で佐渡ヶ島の歴史や伝説をロボットの人形に説明してもらう。億単位の資金をかけて作ったと言う施設であるが、人が見に来るのだろうか?今日も我々だけであった。確かに季節はずれであるがどうも疑問だなー。余計なことだがこんなにお金をかけて大丈夫なのだろうか?

最後に真野アルコール共和国へと向う。
真野町には三つの酒造がある。「真野鶴」の尾畑酒造、「菊波」の菊波酒造、「真稜」の逸見酒造である。我々は尾畑酒造を見学させてもらう。
見学とは言っても、試飲をどうぞ、どうぞと勧められとついつい「それでは1本」というように買ってしまう。また、これは何々の金賞を取った酒で限定品です何て言われようものなら「そうですか、それも1本」となって荷物は酒だらけとなってしまった。
いやいや真野町と言えば曽我ひとみさんではないか?佐渡に来るきっかけを忘れて、試飲ばかりしていては申し訳ない。この町で彼女は母親と一緒に北朝鮮へ拉致されてしまったのだ。
そういえば、去年は蓮池さん夫婦が拉致された新潟の柏崎の海岸へ行って、海岸から海の向こうの北朝鮮を睨んだことがある。
その時もこんなに素朴で平和な町で何で拉致などされたのかと思ったが、大雪に埋もれた真野町も静かな落ち着いた町であった。
つらら


ふと、曽我ひとみさんにもらったはがきの文面を思い出した。




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January 21, 2006

佐渡ヶ島へ2

両津港
朝7時の新幹線で新潟駅へ。そこからバスで新潟港へ向かった。10時のジェットフォイルでいよいよ佐渡ヶ島へ渡るのだ。しかし、ここ2〜3日天候が悪くジェットフォイルが欠航していると言うではないか。不安の中、新潟港に着き確認をすると、今日も朝8時のジェットフォイルは欠航し、カーフェリーしか運航していないが、10時の便は何とか運行する予定でいるとの返事で安心した。

乗船するとジェットフォイルの中はガラガラで、多少拍子抜けした。この時期、特に数十年ぶりの大雪の中、季節外れの佐渡ヶ島へ行く人は少ないということのようだ。
運行したとはいえ天候は良くない。波が高く、曇天の空からは時折吹雪のような雪が舞い降りてくる。佐渡ヶ島の両津港まで67.2km約60分(カーフェリーでは2時間20分)時速80kmで突っ走る。時折遊園地のジェットコースターのようなスリルを味わいながら進んでいく。冬の日本海の海は厳しいということを身にしみて感じていく。気分が悪くなる人も出ていたが、私はずっと外の荒海を見ていた。
遠い昔、無宿者たちや、無実の罪で佐渡の金山へ流された人たちは何時間もかけてこの海を渡るときどのような気持ちであったか、想像するだけで暗い気持ちになる冬の荒海であった。

暗い話はこれくらいにして、心は佐渡の新鮮な魚介類に移っていく。 両津港に11時に着き、ここから観光バスに乗り佐渡ヶ島を周る予定であるが、1時間20分くらい余裕があるので、両津港で昼食をとることにした。
観光客用に両津港のビルの中にも食事をする所はいくつかあったが、こういうときは地元の人に聞くに限る。港の職員にこの近くで魚の美味しい店はありませんかと聞くと、すぐ前の「駒澤」が人気があるようですと教えてくれた。
佐渡ヶ島2
早速その店を探すが、入り口は狭く、教えてもらわなければとても入りづらい店である。ドアを開け二階に上がる細い階段をのぼるとまったく愛想のない年寄りが野菜をむいていた。いらっしゃいませでもなく、どうぞでもない。これは観光客を相手にしていないなと直感する。こういうところが以外に美味しいぞ。
「いいですか」と声をかけると奥から「どうぞ」と声がしておばさんが出てきた。
扇子に書いた品書きを見ると定食は1200〜1500円程度で手頃である。 4人で刺身定食2つ、かにフライ定食、エビフライ定食を頼む。(ついでにビールも1本頼んでしまう)
地元の人が薦めるだけあり、ボリュームも味も十分である。これは幸先がいいぞ。
お腹もいっぱいになりバスに乗り込むと、我々4人と若い男女の7人組み11人で貸切であった。これはゆったりできそうだ。季節外れもいいもんだ。


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January 14, 2006

佐渡ヶ島へ1

佐渡ヶ島1
佐渡ヶ島へは昔から一度行ってみたかった。新潟方面へは学生時代から何度も足を運んでいたが、佐渡ヶ島へはまだ渡ったことがありませんでした。
黄金の島、流人の島、朱鷺の島、佐渡へ。この思いがとみに強くなったのは、北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんが平成14年に戻ってきてからです。

曽我ひとみさんは、母親と買い物途中に拉致され、いまだ母親のミヨシさんは行方不明になっています。 まだ夫のジェンキンス氏や娘さんたちが日本へ戻る前の平成14年12月30日の新聞に母親への思いを便箋3枚に綴った文章が掲載されました。
ちょうど母親の71歳の誕生日(12月28日)に記者会見で読み上げた文章です。そこにはいまだに会えぬ母親への思い出が熱く書かれていて強く胸を打たれました。その中の一節は何度読んでも感激させられます。

新聞記事から引用
前略。
これは私とお母さん2人しか今まで知らない話です。小学校6年生の頃だったと思います。友達が学校で新しいセーターを着ているのを見せてくれました。本当にすてきでうらやましいと思いました。私も1つ新しいセーターがあったらいいなと思いながらもお母さんに買ってくれとは言えませんでした。
その時、頭に浮んだのがたんすの中にあった少しのお金でした。そのお金をお母さんに言わずにこっそり持っていって新しいセーターを買ってしまいました。
その日の夜、仕事から帰ってきたお母さんが新しいセーターを見せてくれと言うのでした。
私はその時、知らないと思っていたのにびっくりしながらお金を黙って持っていったことで本当に怒られると思い、心配しました。だけどお母さんは一言も怒りませんでした。
涙を流しながら、「母ちゃんが新しい服をこうてやれんもんだし、ひとみがセーターをひとつこうてきたんだな」と言われたとき、大声で怒られるより、もっともっと本当に馬鹿で悪いことをしたな思い、私も泣きながら「ごめんね。これから絶対、こんなことしんし許してな」と心から謝りました。
こんなお母さんでした。
後略。

これを読んだ後、私は曽我ひとみさんに手紙を書いて送りました。会ってお話をもっと聞きたいと思ったからです。
もちろん本人の住所は教えてもらえませんでしたので、真野町役場にある真野町帰国家族支援室宛に送りました。

そんな思いもあって、あれから佐渡へ行って見たいという気持ちが強くなったのです。
そして、1月8日いよいよ佐渡ヶ島へ。


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June 18, 2005

「白川郷合掌造り民家園」について考える

06042d05.JPG山中温泉へ行く途中で、世界文化遺産に登録された白川郷合掌造りの民家園を見学した。
5月の連休ということで、大変な人混みであった。
今ではすっかり観光名所となり、土産物や特産品を食べさせる店が乱立し、さながらお祭りのようである。
しかし、合掌造りの民家に住んでいたこの地域の人たちの貧しさ、つらさ、暗さ、そして自然との闘いを思うとき、今のこの賑った様子は不思議な光景である。

岐阜・富山県境の加須良と桂の集落は、秘境中の秘境といわれた深山の弧村で、厳しい自然の中、地場産業の養蚕を行ないながら、静かに心清く生活していたというが、ついに昭和42年に相次いで集団離村をして集落は消滅した。その後、村が残された民家の保存を目的に「白川郷合掌村」を計画し民家を移築して現在の「合掌造り民家園」が出来たという。

人は、大切な物が無くなって初めて、そのものの大きさに気がつくようだ。弧村で苦しんでいた人々に、国や県がこの合掌造りの文化的重要性や自然との調和を理解し、住みながらの保存を計画していたら、集団離村という悲しみを味あわなくても済んだかもしれない。

そんなことを考えていたら、奇しくも私の思いがここのチラシに印刷されていた。

「すぐに儲けにならないものの中には、貴重なものがいっぱいあるのだ。生命の世界もそう、それに景色だってそうだ。なんの儲けになるかと思っているかもしれないが、それがいまにいちばんの貴重品になる時代がやってくる。景色を獲らなくっちゃいけない。その景色の中に生きている、生命の世界を金儲けの魔力から獲らなくてはいけない。」
南方熊楠(中沢新一「森のバロック」より)

ここの民家園を見学すると、どうも複雑な気持ちになる。


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June 06, 2005

「輪島の朝市」について考える。

be62ef55.JPG朝市と聞くと何か爽やかな健康的なイメージが湧いてくる。
実は30年ぶりに5月の連休の後半に北陸まで足を伸ばした。
目的はいくつかあったが、そのうちの1つに輪島の朝市を冷やかしたいと思っていた。

30年前に2度ほど能登半島を旅した。1回目は剣道の合宿で曽々木海岸の民宿に寝泊りした。大学2年の時であった。このときは、旅行などというのんびりしたのもではない。
美しい海や自然を満喫することなく、汗臭い稽古場の記憶が残っているだけだ。

2回目はどうしても能登半島をゆっくり旅がしたくて、大学4年の夏に仲の良いO君とS君とで能登半島1周の旅をした。金が無く、行き当たりばったりの旅であった。ある民宿では旅行客で一杯だと断られたが、東京の大学へ行っている娘の部屋が空いているので、狭いがそこで雑魚寝でよければ泊まってもいいよと、親切に我々若い旅行客を泊めてくれた。
その日は娘さんを心配して、いろいろと東京のことを聞かれた。まだまだ人情が厚かった頃のことだ。
実は東京へ戻り、O君とS君に内緒でここの娘さんに1度だけお会いしたことがある。
民宿のお母さんにお礼の手紙を書いたら、娘のアパートと近いということで、電話番号を教えてくれた。
渋谷でお好み焼きをご馳走して、能登半島でご両親にお世話になったお礼をした。
たったそれだけだが、個人情報保護法など無くてもみんなが常識を守っていたころ、こんな思い出もつくれたのだ。


このときに初めて輪島の朝市を見学することができたのだが、あまりの活気に築地の魚河岸ではないかと思ったほどだ。
おばあさんが自分で作った梅干や、漬物、また干物などを前に置いて売っていたのを覚えている。

まだそれほど観光化していなかった頃、物々交換や今日の食事のおかずを買っている姿が新鮮であった。
こんなところで早朝買い物をしたらさぞかし食事が美味しいだろうと羨ましかった。
その後いろいろなところで朝市が開かれていると聞くと覗きに行ったが、まだあの時の輪島の朝市を超えるところに残念ながらめぐり会っていない。

あれから30年、だから輪島の朝市にはどうしても行きたかった。

女房は能登半島が初めてという。
ホテルからバスで朝市に行くと昔のまんまの朝市がそこにあった。
30年前に会ったおばあさんも梅干や漬物をその時のまま売っている。
そんなことがあるわけが無いのだが、どうしてもあの時のおばあさんだと思ってしまう。
ここでは時間が止まっているのだ。だからあの時のおばあさんに違いない。絶対にそうだ。
何度も何度も繰り返し自分にそう言い聞かせた。

東京へ戻るのにまだ2日もあるというのに、輪島の朝市でとうとういろいろな物を買い込んでしまった。
おばあさんと目が合うとどうしても断れず、これだけだぞ、これで終わりだぞ、と空しく自分に呟いた。

輪島の朝市は本当に時間が止まっているのかも知れない。


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May 21, 2005

桜を追いかけて東北へ3

17bea54d.JPG旅先だと朝が早い。今日も5時に起きだして露天風呂に浸かりながら角館の桜を想像する。風呂から上がるとホテルの近くで開かれているという朝市を冷やかしに出かけた。
少しは賑やかな朝市を思い浮かべていたのだが、テントが7つくらいのこじんまりした朝市で、それぞれ自分の畑で取れた野菜や花、また手作りの団子や漬物を試食させながら売っていた。いつものことだが、試食をしているうちについつい買ってしまった。

目の前には御所湖が広がり、奥羽連山が一望できる。山肌にはまだ残雪が色濃く残って山の春は遠いと感じさせられる。そうだここは岩手県だ。青森県、岩手県、秋田県と桜を追いかけてやってきた。今日はその締めくくりだ。
慌しく朝食をとってバスに乗り込み先ずは田沢湖へ。瑠璃色の湖面が美しく、最深部が423.4mで日本で一番深い湖だという。(因みに世界で一番深い湖はバイカル湖の1741mという)湖畔に立つ「たつこ像」の話をガイドさんに聞きながら一路角館へ。

連休中ということで、角館への道は大渋滞。3時間は桜を堪能できるスケジュールであったが、だんだん時間が食われてくる。バスの中で歯軋りをしてもしょうがない。まあ、ここまできたら成り行きに任せるしかないであろうと、車窓の景色を楽しむ。
何とか70分遅れで角館の武家屋敷前に到着する。集合場所を確認すると、皆堰を切ったようにバスから降りてそれぞれ桜を眺めに散っていく。

武家屋敷の枝垂桜はまだ少し早いようだが、桧木内川堤の2キロにわたる桜のトンネルは八分咲きの見頃であった。
周りには屋台が軒を並べ、近くに席を陣取って賑やかに花見をしている集団に、恋人同士や家族連れ、はたまたカメラやビデオをぶら下げた外人さんまで入り乱れ、ここはもうお祭り騒ぎだ。
こうなったら郷に入りては郷に従えとばかりに、地ビールと地鶏の焼き鳥でお祭りに参加だ。どうせ後は新幹線で帰京するだけだ。

角館の武家屋敷は普段は趣があるが、桜のシーズンはお祭り屋敷と化してしまう。まあこれもいいでしょうと思っているうちに、バスへ戻る時間となってしまった。坊主頭ではあるが、後ろ髪を惹かれる思いでバスへ乗り込む。

角館の駅は新幹線の駅といっても在来線のさびしい駅である。しかし、ここでまた素晴らしいボランティアにめぐり合った。
待合室は椅子が10位しかない狭いところである。観光客は当然駅前に溢れ返ることになる。今日は日差しが強く日陰で無いと厳しい陽気である。その上新幹線が到着するまでまだ40分もある。
その駅前にござがひかれ、和太鼓や座布団が置いてある。なんだろうと思っていると、地元の高校生男女8人〜9人がやってきて太鼓と踊り、それに民謡を披露してくれた。
どうも地元高校のクラブ活動の一環で、観光客に楽しんでもらおうということらしい。
秋田の良さを知ってもらおうと、連休の間交代で観光客にサービスしている若い人を見て駅前は拍手に包まれた。
私たちも新幹線を待っている時間が決して長いとは感じず、郷土の伝統芸能に見とれてしまった。

この3日間、東北ではどこへ行っても心を和ませてくれるボランティアの人とめぐり会った。
東北地方恐るべし。郷土を愛する力の深さと広がりに脱帽である。
桜を追いかけて東北地方まで来た甲斐があった。素晴らしい桜と温かい心に触れさせてもらった。


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May 13, 2005

桜を追いかけて東北へ2

9921c3ae.JPG昨日は奥入瀬渓流の川畔にあるホテルへ泊まった。
高原の朝はとても気持ちがいい。朝食のあとは奥入瀬渓流をツアー全員で散策することにした。深山の中、渓流のあちこちに大小の滝が多くある。私たちは白糸の滝から銚子大滝までの2kmを専門のボランティアガイドの同行で歩いた。まだ新緑には早かったが、二輪草の白い花が印象的であった。朝早くからボランティアの人たちが渓流を案内してくれる。昨日の駒街道でもそうであったが、自分たちの故郷をとても愛していることが分かる。遠くから来た旅の人、たぶん二度と会うことが無いかもしれない人たちに一所懸命奥入瀬渓流の説明をしてくれる。心から故郷を愛しているということが伝わってくる。こういう人たちがいる限り奥入瀬の自然は守られるだろうと思った。

さあ今日のメインは弘前公園の桜だ。わくわくしながらバスへ乗り込み、昨日遊覧した十和田湖の畔を抜けて発荷峠へ。八甲田山を眺めながらの峠越えであったが、まだ残雪が深くところにより70〜80cmは雪が残っていた。
東北自動車道に入って気がつくと、美しい姿の岩木山が雪化粧で目に飛び込んできた。
雪化粧は岩木山から八幡平へと続く。外は暖かく春爛漫。そして遠くに雪景色、そしてもうすぐ桜の公園だ。

連休ということもあり、弘前公園に近づくと渋滞で車が動かない。歩いた方が早いかもしれないと思いながらいらいらしているうちにやっと外堀の桜並木が見えてきた。
外堀はほぼ満開のようだ。先程深い残雪を見てきたばかりだが、ここはもう春真っ盛りである。桜を見ているとなぜこんなにわくわくしてくるのだろう。
「ねぶた村」にバスを止め外堀の桜並木の下を通って弘前公園に入る。いやーすごい人だ。弘前市の人口は19万人という。きっとそれの何倍かの人たちが春になるとここ弘前公園を訪れるのだろう。

天守閣が聳える弘前城跡の公園内には2700本の桜が7分咲きで咲き乱れていた。外堀にある桜より少し開花が遅かったのか、満開とは行かなかったが見事な桜である。
天気もいい、桜もきれいだ。公園内をゆっくり桜を眺めながら歩いた。もう少し時間があればここで昼寝でもしてみたい気分だ。横になって下から眺める桜も空の青さとマッチして綺麗だろうな。そんなことを思いながら後ろ髪を引かれる思いでバスに戻った。
さあ、今日はつなぎ温泉に宿をとって、いよいよ明日は桜紀行のしめくくり、秋田県は角館の桜のトンネルだ。


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May 07, 2005

桜を追いかけて東北へ1

7a0fd726.JPG4月29日から三日間ゆっくり桜を見たくて、「桜を満喫する」というツアーに潜り込んだ。
何年も桜をじっくり眺めたことが無い。いつも何かに急かされるように慌しく桜を見ていた。今年もとうとう東京では桜を満喫することができなかった。そんなわけで「今年は絶対桜を満喫してやるぞ」との意気込みで、先ずは東京駅から「はやて」に乗って八戸へ。

3日前まではまだつぼみであったとの情報を漏れ聞いて、「まさか!」という思いが一瞬過ぎったが、天は我を見捨てなかった。ここ数日天気がよく一気に青森の桜も開花した。
八戸からバスで十和田市の中心部にある十和田市官庁街通り(こういうと何か堅苦しいが通称「駒街道」)の桜並木を見物に。
いいぞ、いいぞ、桜が7分咲きだ。満開とはいかないが、十分堪能できる。天気も上々だ。バスの中から桜並木を見て子供のようにわくわくしてきた。

バスを降りると、地元のボランティアの人たちがジュースを振舞ってくれた。それだけでなく、6〜7人に一人ボランティアがついて説明しながら歩いてくれる。いやーきめ細かいサービスをしてくれると感激した。
年の頃なら60〜70歳の元気なおじちゃん、おばちゃんが一所懸命説明をしたり、写真のシャッター切ってくれたり、それは「ようこそ十和田市へ」という思いと、ここの桜は素晴らしいでしょうという自負がひしひしと伝わってきた。
郷土を愛する心意気というのはこういうことなんだ。と一人で納得してしまった。

「駒街道」は日本の道百選に選ばれている市民の憩いの場所でもあり、1kmにわたり左右に桜並木が続く。そして、駒街道という愛称が付いているだけあって、そこには馬に関連する作品がたくさん置いてある。誰でも自由に作品に触ったり、乗ったりすることができるので、芸術とはいえ非常に親しみ易く、展示という表現ではなく、そこに自然においてあるという感じである。それがまたとてもいい。

中心の「桜の広場」には馬蹄型の鈴で時刻を知らせる時計、左右の歩道には等身大の馬の銅像(「風」佐藤忠良作、「好奇心」大森達郎作、「慈しみ」鈴木徹作)、鞍型の歴史案内板、蹄鉄型道路案内など馬にちなんだ物がいたるところに飾ってある。
市役所の6階の展望台もこのシーズンは休みの日も夜8時まで開放して、市民や観光客を楽しませている。
我々も6階の展望台から桜並木を堪能させてもらった。(写真)

宿へ戻って食事の後、同行した妻と子供は夜桜も見に行くと張り切って出かけていったが、私は地酒を片手に昼間見た桜に思いを馳せてゆっくりすることにした。何といっても明日も明後日も桜を見に行くのだ。ここは体力を温存して、明日は新たな気持ちで弘前の桜を見に行くぞ。


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