京都

March 28, 2005

京都----麩に圧倒される

71ff728f.JPG昨日はあれほど飲んで騒いだのに不思議と目覚めが良く、頭もすっきりしている。

福岡から来たM氏は、何と朝4時に起きて始発の新幹線で帰るためホテルを後にし、同室のY氏も結婚式のため6時頃にはホテルを出発したという。
二日酔いになった隊員も出ず、朝食をそれぞれ取り、M先輩が手配してくれたタクシーに乗って三十三間堂へと向い、M先輩と合流した。
三十三間堂は何度か訪れたが、来るたびに中央の巨像(中尊)を含めた1001体の観音像には圧倒される。
2月初旬で、堂内の長い廊下はカーペットが引いてあるとはいえ、底冷えがした。
昔、修行のお坊さんたちは、この寒い堂内の長い廊下や縁側を水拭きし、板の間に座って読経をしていたのかと思うと頭が下がる思いがする。
これくらいの寒さで、出口にあるストーブに群がる我々現代人は、腑抜けになったような気がして恥ずかしさを感じた。

腑抜けなので、麩を食べて元気を出そうというわけではないが、三十三間堂を出て我々は、京都の裏道をゆっくり歩きながら、五条大橋の東側にある創業元禄二年という老舗のお麩料理を食べに行った。
M先輩お薦めの店で、予約をしてくれていた。1時の予約であったが、ここも女性客で超満員。しばらく待つ間にお土産をみんな買いだした。普通は食べた後、美味しかったのでということで土産にするケースが殆どであるが、京都育ちのM先輩お薦めであれば間違いないということで、食べる前に買い込んだ。

ここはコース料理ですべてお麩と湯葉の料理ばかりである。
はじめは金魚でもあるまいし、お麩を肴に酒など飲めないと豪語していた隊員も、運ばれてくる料理を食べ始めるとこれは美味い。これが麩だとは言われなければ気がつかないと褒めることしきり。
確かにここの麩は私が想像していた麩とは明らかに違う。これが技術だ。そして300年の歴史と心がこもった味だと感心した。心を尽くした仕事にまずい物があるはずが無いのだ。
(因みに、土産に買ったそぼろを娘の弁当に入れたところ軟らかい肉だと信じて疑わなかった。)
京都でまた新しい発見をした。「半兵衛麩」これは見た目も味も一級品である。女性が好む昔ながらの京都の店構えでもある。古都はどこまで懐が深いのか、麩で圧倒されたのは初めてである。
京都は腑(麩)抜けではないぞ。
もしかしたら京都府の府は「麩」の漢字にしたほうがいいなどと、勝手に思ったほどだ。

麩に感激し、次はいよいよM先輩が支配人をしている「京大和」へ。

今回は時間が無いため食事をせず、3000坪の敷地にある庭や翠紅館(京大和本館)内部を案内していただき、京都屈指の眺望を誇る部屋で話を聞いた。
ここ翠紅館では、文久三年(1863年)一月、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞等が集まり、また同年六月には長州藩桂小五郎、久留米真木和泉守等が集まり、志士代表者で攘夷の具体的な方法が協議された。これを翠紅館会議と称されたほど由緒のある料亭旅館との事である。
庭も素晴らしいが、高台にあるここから眺める京都の町は本当に絵になる素晴らしい眺めであった。
昨日の余韻を楽しむかのごとく、M先輩が舞妓さんの名前の入った大きなうちわをたくさん奥から出してくれて土産に何本かいただいた。

京大和を出て、ねねの道を通り、八坂神社へ入ると偶然に本堂で結婚式を行なっていて、古式ゆかしい花嫁姿を拝見させてもらった。四条通で買い物をする前に、この遠征の為だけに帰国したH氏は、今日中国へとんぼ返りするというので急ぎ分かれて成田へ向った。

そろそろ帰りの新幹線の時間も迫ってきたので、名残惜しいがM先輩と再会を約して京都駅へ急いだ。
今回の京都遠征はとにかく中身の濃い充実した旅だった。
酒もよく飲んだ。楽しい酒であった。

そんな余韻が消える前に酒を侮辱する事件が起き、世間を騒がせた。
これは黙って入られない。酒の援護をしなくては。ということで、「酒は一生の飲まないだと!」と題して書きたいと思います。


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March 22, 2005

京都----いよいよ祇園へ

8d22ccb3.JPG慌しくホテルからタクシーで鰻、京料理の老舗「ぎをん梅の井」へ。
http://www.gion-umenoi.com/top1.html(雰囲気はこちらで御覧ください)
ここはM先輩の実家で、現在はお兄さんの息子さん(M先輩の甥)が4代目として伝統の味を受け継いでいます。(御覧になった皆さんも祇園へ来たら是非一度お寄りください)
17名は2階のお座敷に上がり会席料理を堪能しながら、お茶屋遊びの前に腹ごなしとばかりに昔話に花を咲かせ盛り上がっていました。
京料理は見た目も味も上品ですので、ゆっくり味わって食べるのがいいのでしょうが、どうも17名も揃い、ましてやM先輩の実家とあって大騒ぎの中での食事となってしまいました。最後に鰻丼で締めて、いよいよ「ぎをん」の街へと繰り出しました。
酔い覚ましにゆっくり歩いてお茶屋「湊屋」さんへ。
道すがら何人かの舞妓さんとすれ違いほーとため息をついていると、M先輩が彼女はまだ舞妓見習いだと教えてくれました。
おかみさんと舞妓さんの案内で2階の座敷へ通されると、3人の舞妓さんと芸妓(おねえさん)が待っていて席を作ってくれました。
下地は十分「梅の井」で出来ていますので、すぐに盛り上がり「トラトラ」という遊びから入りました。遊びの内容は長くなるので、省略しますが、舞妓さんと1対1で踊りながら勝負をし、負けると舞妓さんたちがいっせいに囃(はや)したてビールを飲み干します。
この囃しが絶妙で素晴らしく、ついつい飲み干してしまいます。それも人によって囃しが異なりこれは稽古なくして出せない「芸」だと感心しました。
先程、道すがらすれ違った舞妓さんをM先輩が見習いだと言った訳を聞くと、姿かたちは舞妓のようだが、口紅が下唇だけで上唇には紅が塗ってなかったと言いました。
見習いの舞妓は上唇に紅を塗ることを許されません。修行が終わって始めて上唇に紅が塗れる。16〜17歳から舞妓修行に入って一人前と認められ、やっと両方の唇に紅が塗れるのだそうです。しかし、そこからが始まりで、その後、舞妓の修行を何年か積んで芸妓として認められる。
芸妓になってからでないとかつらは被れない。舞妓のうちは自毛で髪を結うので手入れが大変で寝るのも一苦労のようです。これは旅館に派遣されるコンパニオンやクラブやバーのホステスさんとは全く違う世界だと感じた。
アルバイト感覚ではとても勤まる仕事ではない。それに何とかしてお客さんを楽しませようとの心遣いが伝わってくる。「おねえさん」の目も厳しいものである。にこにこしているが時々舞妓の方をきっと睨んで目で合図をしている。目は口ほどにものを言うとはこのことだ。
いくつかの遊びをしているうちに舞妓さんが5人になっていた。
後から下唇だけの見習いさんが来ていたのだ。さあ賑やかになってきた。4人の遠征隊の女性も大乗りで、立ち上がって踊りだす始末。これはもう止められない。
女性をここまで乗せるこの技は心が入っていなければ出来るものではないでしょう。
義理や仕事だからというレベルでは到底出来ない。プロの技である。
まだまだ幼さの残る舞妓さんではあるが、今日は本当の日本の遊びを楽しませてもらった。
渋谷や新宿に屯する若い女性(うちの娘もそうか)ばかりではないぞ。京都には芸を磨いている若い子もいるぞ。
成長した姿を見に、また、遊びに来よう。そんな思いでお開きにした。

明日はゆっくり起きて「京大和」を見学させてもらおう。


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March 16, 2005

京都----M先輩との絆

2e122fae.JPG京都遠征に大変御尽力いただいたM先輩について少しお話したいと思います。
M先輩とは、私が20歳の時に初めてお会いしました。
大学時代、私たちの剣道の稽古を体育館の格子の隙間から覗いていたのです。何日かこうして剣道の稽古を見に来ていました。最初は何か怪しいやつだくらいに思っていました。たびたび見学に来るので、4年生が「中へ入って御覧ください」と勧めると、遠慮がちに体育館へ入って稽古を見ていました。
そして、稽古が終わると「私も稽古をさせてもらっていいですか」と尋ねてきました。
どういう人かと尋ねると京都の同志社大学剣道部の出身だとの事で、それなら一緒に稽古をしましょうということになりました。

M先輩30歳前後のことです。

京都から上京し、新宿歌舞伎町でスナックを経営しているので、「店が始まる前に時々、大学で稽古をさせてもらいたい」ということでした。
現在は範士八段のA先生が指導に当たっていますが、当時は剣道の専門家の指導者はおらず、OBなどが指導をしていましたので、経験者の人と稽古が出来るのはありがたいことだと、われわれも稽古への参加をお願いしました。
M先輩も喜んで、それから週に2回から3回は稽古に参加するようになりました。

それはそれは熱心に稽古に参加され、Mスペシャルと学生から恐れられる荒稽古で、われわれ学生を指導していただきました。それもそのはずM先輩は同志社大学のM兄弟(お兄さんも剣道部で活躍していました)として関西を代表する選手だったのです。
その後、約10年間にわたり無報酬、手弁当で試合や合宿にまで同行いただき、縁もゆかりもないわれわれのために私生活を犠牲にして指導いただきました。

学生時代、新宿のスナックにも伺い随分御馳走にもなりました。
誰でも知っている有名出版社のO社長、九州の大手建設会社のF社長、一流企業役員のI氏、警察官のY氏、大地主のE氏など私も含めて多くの学生がM氏の店で飲みつぶれてお世話になりました。
その後いろいろとご苦労なされ、大阪、長野、京都と移りましたが、現在は無く子も黙る「京大和」の支配人として時々テレビにも顔を出しています。

この遠征の一番の目的はM先輩に会いに行こうということでした。
33年間どこへ移られても連絡を取り合い、いつかM先輩のいる「京都で飲もう」を合言葉に計画を練ってきました。おじさんおばさんになったわれわれですが、M先輩の前ではいつも学生の時そのままです。
大会社の社長、役員とは言っても会うと皆、頭が上がりません

10年間とはいえ、単に思い出の人で終わっても不思議では無かったM先輩ですが、教師以上にこれほど長い間、心の通った交流が持てるのも、全く無欲のご指導があったからだと思います。

仏教ではお金や物で施しをする一般的なお布施の他に、財物が何もなくても誰でもできる「無財の七施」という人への施しがあります。
眼施(優しいまなざし)、和顔施(にこやかな顔)、言辞施(優しい言葉)、心施(思いやる心)、身施(体を使って奉仕する)、床座施(自分の席を譲る)、 房舎施(我が家を一夜の宿に貸す)の七つの施しです。
今振り返ると、私たちは学生時代知らず知らずのうちにM先輩からこのような施しを受けていたのです。
実は、ここに今問題になっている「心の教育」のヒントが隠されているように思えてなりません。


そんなM先輩の後について次回はいよいよ祇園へと参りたいと思います。


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March 09, 2005

京都----町屋でイタリアン

edd979f8.JPG観智院を出ると、そろそろ腹が減ってきました。

昼食は京都でイタリアン。ということで、出発前から予約を入れていました。
これは京都のM先輩お勧めの東山区清本町にある「スコルピオーネ祇園」(写真)という店です。
ここは町屋を改造し、イタリアレストランにした店で、最近京都ではこのように町屋を改造し、外観はそのままに中を中華料理店やフランス料理店などにするところが多くなったといいます。

「スコルピオーネ祇園」も町屋そのままの造りで外観からは全く何の店だか分かりません。木戸をくぐって細長い庭を通って玄関の戸を開けると、そこは町屋の玄関を改造した受付があり、中も町屋の趣を最大限生かした純和風になっています。17名という大人数のため中庭の見える和室と椅子席の部屋に分かれました。
自称「喜び組み」の4人の女性とM先輩、そして一番年下のT君が椅子席で、残りの男性11人は和室で食事をしました。

コースのイタリア料理は非常に上品な見栄えと味でしたが、男性には量が少しもの足りないようにも感じました。しかし、女性たちは大変に満足し、京都に似合う素敵な店だと喜んでいました。そうかここは女性の心を捕まえているのか。
そういえば、殆どのお客さんが若い女性だったというのも頷けます。
大きな和室に男性ばかりというのは、少し場違いだったかもしれません。
京都は情緒があるなー。女性が似合う町だなー。町屋でイタリアン、町屋で中華。
これも京都の「心」なんだと勝手に納得しました。

「スコルピオーネ祇園」を出て、腹ごなしに歩くことにしました。(最初は少しのつもりでした)
京都は歩くにはもってこいの街です。全く飽きることの無い風情のある街です。
知恩院、京都武徳殿、平安神宮、南禅寺、金地院と歩いて廻りました。
それもM先輩の先導で、わき道を好んでとおり観光客の通らない静かで京都の古い町並みが残っている通りを歩いていきました。

それにしても疲れました。

多くの石段を登り、細い道を抜け、カメラを片手にきょろきょろと17人が一団となって歩いている姿は異様であったと思います。
そして、ついに「ウェスティン都ホテル」まで歩いて来てしまいました。
予定では、ホテルで1時間30分くらいゆっくりして、英気を養い、いよいよ出陣という段取りでしたが、なんと出陣まで30分も無いということになってしまいました。
これでは身を清める時間も…… バタバタと準備をして集合のロビーへ。


今日は良く歩いたなー。こんなにぶらぶらと歩いたのは何年ぶりだろう。
いつも心に余裕が無く、早足で先を急ぐように歩いていたが、こんなに何時間もゆっくり景色を眺めながら歩き廻ったのは本当に久しぶりです。
旅行へ行っても車や電車にすぐに乗り、何時間も歩くことが無かった。
京都はよく歩かせてくれる不思議な街だとつくづく思います。

次回は出陣の話の前に、「京都-----M先輩との絆」と題してこの遠征の立役者M先輩(写真中央)について少し語りたいと思います。


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March 05, 2005

京都----心柱について考える

e638d962.JPG「心柱」(しんばしら)聞きなれない名前です。

東寺の五重塔の真ん中には、心柱が聳え立っています。
五重塔と言いますが、この塔は私たちが考えている5階建てという構造の塔ではないようです。1階建てが5つ重なっているといった方がいい構造です。
東寺のリーフレットには次のように書いてあります。

「五重塔の塔身が各層ごとに、軸部・組み物・軒を組み上げ、これを最上部まで繰り返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組や単純な釘打ち程度で、緊結されていない柔構造である。だから4度も焼失したが、地震で倒壊したという記録は残っていない。地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに下と上の層が互い違いに振動することになる。柱も各層で短いため、倒れようとする力よりは元に戻ろうとする復元力の方が多きいため地震に強い」
少し難しいですが、要するに1階建てが5つ重なっていると理解すればいいでしょう。

私たちは初層(1階部分)内部を拝観させていただいたが、心柱は中央にあり5階まで聳え立っている。建物の構造には全く関係なく独立して立っています。
普通われわれは建物の中心となる柱というと大黒柱を思い浮かべ、建物の構造上大切な柱と思いがちですが、この心柱は構造には全く関係ない独立した柱です。
これが無くても構造上何も問題はありません。むしろこんな事があったくらいです。
長い年月により多くの部材で積み上げられた塔身は乾燥で収縮しますが、独立した心柱は収縮しないため、心柱は屋根を突き上げてしまい1692年に約50センチメートル下を切り下げたといいます。
うーん恐るべし「心柱」。

初層内部は心柱を大日如来に見立てその周囲の須弥壇(しゅみだん)上に阿閦(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来、阿弥陀(あみだ)如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の金剛界四仏と八大菩薩を安置しています。そして、四面どこからでも正面になるような造りになっているのです。
初層内部に入って感じるのは、建物の構造には関係ないとはいえ、塔を支えているのは紛れも無くこの心柱であるということです。そして、塔の心臓であり、頭脳であり、精神であるかのようです。
そうだ。心柱があってこその国宝なのだ。

私たちもこの心柱のような存在になりたいものです。
自ら進んで他に影響を与えないが、聳え立っているだけで人が集まり、心のよりどころにする。そんな大きな存在になりたいものだと思いながら五重塔を後にして、東寺観智院の門をくぐった。

ここでは国宝に指定されている客殿の床の間に描かれた、宮本武蔵の「鷲の図」を期待していました。二羽の荒鷲が今にも飛びかからんとする絵で、鋭い筆致は他の追随を許さないとの触れ込みであったからです。しかし、経年変化のために目を凝らして見ても説明を聞かないとどこが鷲の目か爪か判別がつきづらかったのは残念でした。
ここは年配のボランティアの方に説明してもらったのですが、院内を案内してもらいながら保存に必要な資金が国からも府や市からも十分にでないと嘆かれました。
京都はいたるところで拝観料がかかります。それも結構な金額の拝観料です。
しかし、ボランティアの方の嘆きを聞くと国宝を公開しながら保存していくには、われわれ国民が応分に負担をしていかなければ、「国の宝」として残していくことは難しいのだと感じさせられました。

観智院を出ると、さて、そろそろ腹が減ってきたぞ。
昼食は京都でイタリアンだ。

ということで、次回は「京都-----町屋でイタリアン」と題して書いていきます。


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March 01, 2005

京都について考える

3e6d1af0.jpg京都の話です。
世の中ごたごたしたことが多い時代になりましたが、そんな時こそ京都です。

2月の初めに久方ぶりに1泊で京都へ行ってきました。16名という大人数でしたがツアーではなく気心の知れた仲間たちとの遠征です。(旅行ではなく何故遠征かは後ほど)
不詳私が遠征隊長としての大役を仰せつかり、お役目といいながら隊員を押しのけて楽しませていただきました。
海外は上海から、国内は福岡からこの1泊のためだけに集まってきた者もいました。
また、ご夫婦一組、主婦3名(ご主人の了解のもと)も馳せ参じてきました。
何故この寒い季節にわざわざ京都か? これには訳があります。遡ること1年半前、ここからこの遠征の企画は始まりました。

平成15年秋、吉祥寺の料理屋に25名ほどが集まり30年前に戻って大騒ぎをしていました。学生時代お世話になったM氏が上京したので、その方を囲んで懇親会を開催したのです。それこそ30年ぶりにあった人もいましたが、すぐに当時の先輩後輩に戻って昔話に花が咲きました。
とまあ、この話をし始めると京都の話に入るまで3回はかかってしまうので、いきさつは追々機会を見つけて書くことにして全員集合した京都駅から話を進めましょう。

とにかく16名と京都のM氏が午前10時30分京都駅で再会しました。そして、駅からタクシーに分乗し、17名は東寺へ。ここは何があっても外せないと、翌日朝6時過ぎの新幹線で帰らねばならない隊員が主張をしました。(彼は翌日結婚式があり20時間しか京都に居られないのです)
京都は今いろいろなところで普段非公開の場所が公開されています。ここもその一つです。

東寺と言えば何といっても五重塔です。ここの五重塔は国宝に指定されています。
弘法大師空海が嵯峨天皇から東寺を勅賜(ちょくし)され、826年に五重塔の造営を始め何と竣工したのが883年です。その後しばしば災火をうけ焼失すること四回におよんでいます。当時は、京都でずば抜けて高い建物でしたので、雷にうたれる頻度が高かったのでしょう。そして、現在の塔は1644年徳川家光の寄進によって竣工した55メートルの現存する日本の古塔中最高の塔です。

塔の前には何人かの学生のボランティアガイドがいましたので、案内をお願いしました。
まあよく覚えたなというほどしっかりと歴史の説明をしてもらいました。
京都にはこのようにボランティアのガイドが多くいます。自分たちの故郷をとても誇りに思っているようです。
そういえばここへ来るまでのタクシーの運転手も、京都では歴史を知らなければタクシーの運転手も出来ませんよと言っていました。うーんやはり京都は奥深いぞ。

五重塔の中へ入り説明を受けましたが、何といっても真ん中にある心柱(しんばしら)が印象的でした。心の柱と書いて心柱となれば、心力舎の社長としては見逃すわけには行きません。

あれ、また紙面を随分使ってしまいました。これは京都の話は長くなりそうだぞ。読まれる方は今から覚悟をしておいてください。と言うことで、次回は「京都----心柱について考える」と題して書いていこうと思います。


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