October 12, 2009

「東京オリンピック」について考える

2016年の第31回夏季オリンピックは、リオデジャネイロに決定した。
圧勝と言ってもいい勝ち方であった。下馬評で優位に立っていたシカゴは1回目の投票で敗れ去った。東京は2回目の投票で敗れた。シカゴの票を取れなかったどころか1回目より票を減らしてしまった。

原因はいろいろ言われている。
IOC(国際オリンピック委員会)が掲げている開催に当たっての条件というのは、施設面やセキュリティー、運営能力、財政面などであり、それらが評価のポイントになるという。これらを一つずつ検証すれば総合点で東京が1番であったと思う。しかし、東京は敗れたのだ。当の石原知事が、オリンピックというお金に換算して数兆円の経済効果をもたらすイベントには、当事者国だけでなく、その周辺国、関係国の大きな力が働くといっていたが、その部分も確かにあるであろう。また、ロビー活動で遅れをとったとか、国内の支持率が低かったとか、東京は2度目だからとかいろいろいう人がいる。いちいちもっともである。だが、本当の理由は国の威信をかけたリオデジャネイロの無邪気、無条件の熱気ではなかったかと感じた。南米初のオリンピックに情熱を燃やすリオデジャネイロいや、ブラジルの勢いに勝てるものなど無いと投票が終わった後に感じた。

同じようなことを京都大学教授の佐伯啓思氏が某新聞に書いている。

・ ・・前略 ・・・戦後の日本においては、国家とは、人々の必要を満たし、生存や安定を確保する機構とされている。むろん、これはきわめて正しい見方である。だが、世界の多くの国は、国家をそうは見ていない。国家とは、国民の「名誉」や「威信」を世界に示す装置であり、ここには激しい競争があり、国は、その競争を有効に行う人々の集まりである、と見ている。特に新興国の場合はそういってよい。つまり「若い」国である。そうだとすれば「若い国」に勢いがあるのは当然であろう。
ブラジルのような新興国にあっては、国家そのものがスポーツ的な競争集団のニュアンスを帯び、また、スポーツが国家的なニュアンスを帯びてくる。昨年の中国・北京オリンピックもそうであった。・・・後略・・・。

1964年同じ熱気が東京にあった。
東京でオリンピックを開催するために、いや、東京ではなく日本でオリンピックを開催するためにオールスターで招致活動に奔走したのだ。
日本だけではない。作家 高杉 良氏の「祖国へ、熱き心を」(和田 勇の伝記小説)の主人公日系米国人和田 勇が私費で38日間かけて中南米を駆け巡ったエピソードなど知られざる活動が日本にアジアにオリンピックを引っ張ってきたのだ。
今回の東京オリンピック招致活動にはどうもその熱気が無かった。日本での2回目のオリンピックではなく、東京での2回目のオリンピックになってしまっていた。
地方での盛り上がりなどは全く感じなかった。
それこそ否定的な意見も多く聞いた。
内心、私はテレビで投票が中継され、日本が落選したのを確認したときほっとした。1964年の東京オリンピックのような熱気をもう一度日本全体で起こしてからオリンピックを開きたいと思ったのだ。そうでなければ子供たちにあの感動は伝わらないだろう。

金メダル 16 /銀メダル  5 /銅メダル 8 入賞36という輝かしい記録以上にバレーボールの東洋の魔女達と大松博文監督、体操の小野喬 ・遠藤 幸雄・鶴見 修治・山下治広・早田卓次・三栗 崇(団体金メダル)ボクシングの櫻井孝雄、重量挙げの三宅義信、柔道の中谷雄英、岡野 功、猪熊 功、ヘーシンクに敗れはしたが、感動を与えた神永昭夫、マラソンの円谷幸吉、レスリングの吉田義勝、上武洋次郎、渡辺長武、花原 勉、市口政光など数え上げたらきりがないほどの感動があった。日の丸の小旗をテレビの前で振っていた大人たちの光景が今でも蘇る。
そういえば、東京オリンピックの公式パンフレットに記録を書き込んで、今でも大切にとってある。

日本でのオリンピックをもう一度見てみたい。


cpiblog00620 at 15:48│Comments(1)TrackBack(0)clip!雑感 

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この記事へのコメント

1. Posted by rado replica sale   May 15, 2015 11:39
日本でのオリンピックをもう一度見てみたいSimple to support indicates pleased watchmaker.

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