June 18, 2009

「見える」という事について考える

米テキサス州フォートワースで開かれた「第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」で日本人初の優勝を果たした全盲のピアニスト、辻井伸行さん(20)の快挙に日本中が沸きかえったのは先日のことである。
受賞後のインタビューで、もし目が見えたら何を見たいですか? という質問に「両親の顔も見たいし、海や空なども見てみたい。しかし、今は心の目で見ていますので、満足しています。」という答えが返ってきた。

全盲で最難関といわれる国際ピアノ・コンクールに優勝することは至難の業である。その努力たるや凡人の能力を遥かに超えている。
しかし、私はふと思った。目が見えないということは、ハンディーなのだろうか?ピアノを弾くためにはハンディーとなるのだろうか?という疑問が湧いてきた。
確かに音符を見たり、鍵盤を弾いたりするには不便かもしれない。耳から入る音を出すためには不便かもしれない。だが、彼は幸いにも(?)目が見えない。心に沁みこませる音を出そうとしている人に音符や鍵盤を見る必要があるのだろうかと思ってしまう。

私たちは目でものを見る習慣に慣れてしまっている。目で見たものを脳へ伝える。辻井さんは目でものが見えない。しかし、脳は何か判断基準を求めて目に変わるものを発展させる。そうしなければ判断が出来ず、脳が停止してしまう。辻井さんが「心の目で見ていますので、今は満足です。」と言った言葉にうそはないと思う。
辻井さんは実は見えているのだ。

形あるものではなく、その物の本質を見ているのだ。姿かたちから入ってくる目の情報ではなく、心や空気、息遣い、言葉や足音から本質を見ているのだと感じた。耳や鼻、手や足から実は私たちよりも物が見えているのだ。

障害者というのは、私たちが勝手に思っていることである。見えるという障害も実はあるのだと思う。目で見た情報で惑わされ、本質が見えづらくなっている我々が実は障害者なのかもしれない。


cpiblog00620 at 17:41│Comments(0)TrackBack(0)clip!こころ 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔