January 31, 2009

「洞山無寒暑(どうざんむかんしょ)」について考える

前回のブログで「立行寺」の日の出前の寒さを書いたが、その後以前読んだ相田みつをの「いちずに一本道、いちずに一ツ事」を何の気なしに読み返した。
私は乱読をほとんどしない、熟読玩味(じゅくどくがんみ)派である。一冊の本を何度も読み直すことが多い。
それなのに改めて読み直してガツンとやられた。

相田みつをは在家のまま武井哲応老師に師事して仏教を学んでいた。その武井哲応老師から「洞山無寒暑」の話を聞いたと書籍の中で書いていた。以前読んだときは「うん うん」と納得をしたのだが、すぐに忘れてしまう。

昔、中国に洞山良价(とうざんりょうかい)という優れた禅僧がいた。(洞山良价についてはここでは解説を控える)そこへ修行僧が尋ねてきて質問をした。
「寒くて困った。暑くてやりきれない。何とかいい方法はありませんか?」すると洞山が答えた。「そんなに大変ならば暑さ寒さのないところに行けばいいではないか」修行僧は納得がいかず「暑さ寒さを超えたところというのは一体どういうところですか」と聞き返した。洞山は「寒時(かんじ)は闍梨(じゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱時(ねつじ)は闍梨を熱殺(ねつさつ)す」と答えたという。「闍梨」は自分自身、「殺」は自分をそのなかに没入するという意味です。
要するに寒いときは寒さと一体になって自分を忘れる。自分を忘れたときに寒さも忘れる。
寒中水泳や夏の甲子園大会などは見ているほうが寒く感じたり、暑く感じる。その中に没頭している本人は寒さや暑さを忘れている。
昔の人は「いちばん寒いところはコタツの中だ」と教えたという。

以上は「いちずに一本道、いちずに一ツ事」からの引用ですが、確かにあの時、写真家のK女史は手袋もはめず、もくもくとレンズを覗いていた。そばで佇んでいた私だけが寒がっていたように思う。

仏教も仕事も理入(りにゅう)ではなく、行入(ぎょうにゅう)ではないと身にはつかないとつくづく感じた。やはり熟読玩味の後は、実践躬行(じっせんきゅうこう)なのだ。


cpiblog00620 at 15:46│Comments(0)TrackBack(0)clip!雑感 

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